国指定史跡、続百名城
兵庫県洲本市小路谷
▲ 本丸大石段と称する本丸への入口。
大坂湾を制する
水軍城
正平五年(1350)、足利二代将軍義詮の命により紀伊日置浦の熊野水軍の一族安宅氏が海賊(物部氏)討伐のために淡路に進出して地頭となった。 この安宅氏は熊野本家から独立し、淡路安宅氏として島内各所に城を築いて勢力を誇った。ここ洲本に築城したのは大永六年(1526)、安宅活興と伝えられている。はじめ守護細川尚春に仕えていたが、世は下克上の真っ只中、細川氏に代わって三好氏が権勢を握るやこれに従った。 天文五年(1536)、安宅氏は守護三好之長の三男冬康を養子とし、三好氏とともに畿内制圧の戦いに出陣した。 永禄七年(1564)、冬康は長兄である三好長慶によって暗殺されてしまった。松永久秀の讒言で謀反の嫌疑をかけられたのである。 三好氏が内紛を繰り返している間に時代は大きく変わろうとしていた。織田信長の登場である。冬康の長子信康は信長に従った。そして淡路水軍を率いて毛利水軍と干戈を交えている。さらに大坂湾を制する安宅水軍は本願寺封じ込めにも重要な働きをしたであろう。 しかし、信康は急逝してしまう。後を継いだ弟の清康は熊野本家から嫁を娶り、両安宅氏を率いて織田信長から離反したのである。 石山本願寺を攻略する信長にとって淡路は重要であった。毛利による本願寺支援を許してしまうことになるからである。 天正九年(1581)十一月、信長は羽柴秀吉、池田元助を派して淡路を攻略。清康は降伏したが年明けを前にして急死した。この後、安宅氏は秀長に仕え、関ヶ原では西軍に属したために浪人した。大坂の陣では豊臣方につき、当主信定は自害して果てた。これが安宅氏の終焉であった。 天正十年、本能寺の変後、四国の長曾我部氏の後押しで土着の水軍菅平衛門が洲本城を確保した。しかし、これは長くは続かず、山崎の合戦に向かう秀吉が仙石秀久を洲本城の奪還に派遣してきた。菅平衛門は降伏、以後は秀吉の忠実な家臣として生きてゆくことになる。 天正十三年、秀吉の四国攻略。戦後は脇坂安治が三万石で洲本城主となった。主に水軍の拡充に力を注ぎ、朝鮮の役で活躍している。慶長五年の関ヶ原では西軍についたものの小早川勢に同調して東軍に寝返った。おかげで本領は安堵された。その後、伊予大洲城五万三千石に移るまでの十年間、安治は洲本城の改築に力を入れている。現在見られる遺構はこの時のものである。 家康は藤堂高虎に洲本を与え、城の改築を中断放置させている。その後、淡路は池田輝政の所領となり、続いて蜂須賀至鎮の治めるところとなった。 ただ、池田、蜂須賀ともに政庁を由良城に置いていた。 寛永八年(1631)、蜂須賀家の城代として由良にいた稲田九郎兵衛は城下経営の不便を訴え、ここ洲本に政庁を移した。これを「由良引け」という。この時に整備されたのが山麓北側に見られる濠と石垣である。山上の城を「上の城」、山麓のものを「下の城」と呼んでいる。 この稲田氏は蜂須賀家累代の家臣で、江戸時代には一万四千五百石という大名なみの高禄で、洲本は支藩のようなものであったといえる。このことが底流にあって後に「庚午事変」を引き起こすことになる。この事件の詳細は別の機会に譲るとして、明治三年、稲田邦植以下家臣一族ともに北海道移住が命じられ、日高国静内の荒野へと移っていったのである。 |
▲ 「下の城」と呼ばれる一帯は現在、裁判所や 史料館などの公共施設が建ち並んでいる。 |
▲ 戦国の城から民政の城へと 変わった洲本城(下の城)の石垣と濠。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2004年8月9日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」他 |