岩原城
(いわはらじょう)

市指定史跡

神奈川県南足柄市岩原


▲ 岩原城跡の大半は宅地、畑地と化しており、この西物見郭跡のみが史跡
として保存されている。かつて本丸の西に隣接した物見台の跡である。

西相の名将、大森氏頼

 応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱。鎌倉公方足利持氏に対する前関東管領上杉禅秀(氏憲)による反乱が起きた。

 この反乱は関東のみならず京都の将軍義持に対する反乱までもが画策されていたという。禅秀は十万の大軍を結集して鎌倉を襲った。公方持氏はかろうじて鎌倉を脱出し、駿河の守護今川範政を頼った。

 この逃走の過程で公方持氏は一時的に駿河国駿東郡(御殿場市、裾野市、小山町)の国人大森頼春の館に潜んでいる。後日、頼春は禅秀討伐の今川勢の先鋒となって活躍した。

 戦後、頼春は鎌倉に復帰した公方持氏から戦功を賞され、相模国足柄郡を与えられた。ここ岩原城の築城時期についてはあまり明確でないが、この頃であったとも思われる。

 頼春の後、憲頼が西相の地を継いだ。永享の乱(1438-39)、享徳の乱(1455-83)と関東は慢性的な戦乱状態が続くが、憲頼は一貫して鎌倉公方の忠臣として勢力を振るったようである。大森氏の本拠地として小田原城が築かれたのもこの頃であったとみられている。

 一方、頼春の子で憲頼の弟である氏頼は管領上杉方に付いて公方足利方の憲頼と争ったようである。

 文明十年(1478)、憲頼(応仁元年/1467死去とされる)の跡を継いだ成頼が上杉方の太田道灌によって滅ぼされ、西相模は氏頼とその子実頼のものとなった。氏頼は実頼を小田原城主とし、自らは隠居して奇栖庵明昇(きせいあんみょうしょう)と名乗ってここ岩原城に入った。

 隠居したとはいえ氏頼こと奇栖庵の存在は大きく、太田道灌亡き後の扇谷上杉家内においては三浦氏、曽我氏と並び、扇谷三家と呼ばれるほどであった。

 当時、上杉氏は扇谷家と山内家が争い(長享の乱/1487-1505)を繰り返していた。こうした絶え間なく続く争いに対して、氏頼は主家である扇谷上杉定正に諌言の書を表した。「大森教訓状」と言われるものである。

 しかしながら、両者の争いは氏頼の諌めも空しく、果てしなく続いた。

 明応三年(1494)、戦乱の最中、氏頼は七十七歳で没した。相模進出の機会を窺がっていた伊豆の北条早雲も氏頼の存命中は手が出せなかったといわれている。西相の名将氏頼の死の翌年、早雲は機略を駆使して小田原城を奪取した。

 この時の小田原城主は実頼の弟藤頼で、まんまと早雲の謀計に引っ掛かり、小田原城を抜け出してここ岩原城に逃げ込んだ。しかし早雲の追撃に耐えられず、岩原城も落城してしまった。藤頼はさらに真田城(平塚市)に逃れたが、ついに自害して果て、西相模を支配した大森氏は滅びた。


▲西物見郭跡に立つ「市指定史跡岩原城址」の標柱。

▲城址(西物見郭跡)には大森氏頼奇栖庵の墓(左側の説明板の前)が建っている。

▲城址に集められた墓塔群。

▲西物見郭の西側に残る堀跡。

▲城址入口を示す案内板。民家と畑の間を行くと史跡岩原城址がある。

----備考----
訪問年月日 2009年11月7日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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