(みぶでら)
京都府京都市中京区棚ノ宮町
▲ 境内では沖田総司が近所の子らと遊んでいたという。参道右
側の建物は阿弥陀堂で地階は壬生寺資料室となっている。
新選組、
調練の場
壬生寺の歴史は古く、正暦二年(991)、園城寺(三井寺)の快賢僧都による創建で地蔵院または宝憧三昧寺などと呼ばれていた。 現在、無形民俗文化財となっている「壬生狂言」は正安二年(1300)に円覚上人が多数の群集を前にして行ったのがはじまりとされている。拡声器のない時代に教えを説く方法として無言劇をもって臨んだのである。 さて、時代は下がり、幕末の文久三年(1863)、当寺の周辺郷士の屋敷(八木邸、前川邸、南部邸)が新選組の屯所として使用されることになった。はじめは二十名足らずであった新選組も、日を追う毎に隊士が増え続け、日々の訓練の場としてここ壬生寺の境内が使用されるようになったのである。剣術の稽古のみならず乗馬や大砲の訓練まで行ったというから寺側も閉口したことであろう。 とはいえ、寺は十名の隊士の墓を現在に至るまで大切に守り続けている。 境内の壬生塚には近藤勇の遺髪塔をはじめ、芹沢鴨、平山五郎の墓、勘定方で切腹した河合耆三郎の墓、野口健司、田中伊織ら切腹、戦死あるいは暗殺された隊士七人の合祀墓がある。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2005年1月5日 |
主要参考資料 | 「燃えよ剣」他 |