(すみや)
京都府京都市下京区西新屋敷揚屋町
▲ 島原開基以来の老舗でもあり、現在残る唯一の揚屋建築の遺構で
もある。内部は「角屋もてなしの文化美術館として公開されている。
勤皇も佐幕も
刀を置いて
島原ははじめ豊臣秀吉公認の花街として二条柳馬場に開かれたもので、その後六条新地に移り、さらに寛永十七年(1640)に現在地に移されたのである。その時の移転の慌しさが島原の乱の直後でもあったため、それになぞらえて島原と呼ぶようになった。 角屋は高級宴会場といえるもので、客の要求により遊女を置屋から呼ぶ揚屋であった。 幕末期には尊攘派の志士や新選組の隊士らが遊興あるいは密議の場として角屋を利用した。長州の久坂玄瑞も度々ここを利用していたようで石碑まで立っている。 新選組の芹沢鴨の酒乱癖には閉口したようである。例の鉄扇で器物を叩き潰し、調理場の酒樽を叩き割るなどして七日間営業不能に至ったこともある。 その芹沢、こうした乱暴狼藉がたたって近藤、土方らによって粛清されてしまうのであるが、その際にもここ角屋が利用されている。組を挙げての宴会を開き、芹沢らを泥酔させる場に使われたのであった。 |
▲ 「島原大門」花街島原への入口である。 |
▲ 「輪違屋」芸妓は置屋から 揚屋へ派遣される。 |
▲ 「久坂玄瑞の 密議の角屋」碑。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2005年1月4日 |
主要参考資料 | 「燃えよ剣」他 |