(ちらんきち)
鹿児島県南九州市知覧町西元
▲ 旧陸軍特攻基地「戦闘指揮所」跡の碑。出撃前に特攻隊員はこの戦闘指揮所
前で司令官の訓示を受け、訣別の盃を交わした。そして基地内外の人々が
滑走路脇に並び、日の丸や桜の小枝を打ち振って離陸する特攻機を見送った。
開聞岳の彼方に
昭和二十年(1945)、ここ知覧から多くの若人が青春の名残りを振り切って、南の空に飛び立って往った。知覧は陸軍の特攻機地のあったところなのである。 日頃は戦国の城跡を歩き、その歴史を知ることに夢中となっている私であるが、日本人の歴史を知るうえで避けてはならない時代があると思う。戦国時代しかり、幕末から明治にかけての時代しかりである。そして私たちの父母、祖父母が生きたあの戦争の時代である。あの戦争の時代を抜きにして私たち日本人の歴史は語れないのではないかとさえ思う。 ここ知覧に陸軍が飛行場を建設して運用をはじめたのが昭和十七年(1942)のことで、大刀洗(たちあらい/福岡県)陸軍飛行学校知覧分教所としてであった。大空にあこがれる少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習仕官らの飛行訓練の場であった。 しかし昭和十九年(1944)ともなると戦局は悪化の一途をたどり、十月にはついに海軍は神風特別攻撃隊をフィリピンにおいて編成、特攻の第一陣を出撃させた。陸軍も時を同じくして特攻隊を編成、出撃させた。フィリピンにおける特攻作戦は翌二十年一月まで続けられた。 フィリピンにおける戦いで勝利した米軍は四月には沖縄へと殺到した。米軍の沖縄来襲と同時に陸軍では航空総攻撃という名の下に数えきれぬほどの特攻隊を南九州の複数の基地から出撃させ、多くの若者たちを死出の空に送り出したのである。この沖縄に向けての特攻出撃は六月まで続いた。 ここ知覧飛行場も特攻基地とされ、三月下旬以降連日のように特攻各隊が進出してきた。最初の出撃部隊は第二十振武隊(一式戦闘機「隼」)、第二十三振武隊(九十九式軍偵察機)で、その後連日のように次々と沖縄周辺海上目指しての出撃が続いた。陸軍の沖縄戦に向けての特攻機数は六百四十機といわれ、その内四百機以上が知覧から飛び立っている。 知覧を飛び立った特攻機は薩摩半島南端に聳える開聞岳を左にして南進、一式戦闘機で約二時間、旧式の九十七式戦闘機で約二時間半で沖縄周辺に到達した。この時間は彼らに残された人生の長さでもあった。 知覧における特攻隊にまつわる物語は映画や多くの書籍などで伝え残されている。どれをとっても涙してしまうのは私だけではないはずである。自らの人生を断ち切り、熱い涙を湛えて勇躍飛び立っていった若者たちのいたことを私達は決して忘れてはならないと思う。 沖縄本島における戦闘も終局に近づいた六月十一日五時二十分、悪天候下を三機の特攻機が離陸した。これが知覧における最後の特攻出撃となった。二十二日、沖縄の日本軍玉砕により、沖縄への特攻出撃は中止され、本土決戦に備えることとなったのである。 八月十五日、終戦の詔勅。十二月に入ると知覧基地撤去のための米海兵隊が進駐してきた。基地内の武器弾薬、そして残されていた特攻機の破壊処分が進められた。作業は翌年二月に終わり、知覧から米兵の姿が消えた。 現在、飛行場跡は農地となり、当時の面影を追うことはできない。ただ、開聞岳のみがあの時と変わらぬ姿で見えるだけである。 |
▲ 飛行場跡も今では農地化されてのどかな風景を見せている。 | ▲ 三角兵舎跡への入口に建てられた碑。 |
▲ 「三角兵舎の跡」慰霊碑。 |
▲ 飛行場跡に破壊されずに残された給水塔。 |
▲ 訓練用実弾の倉庫跡で、壁面には米軍機の攻撃による弾痕が残っている。 |
▲ 知覧特攻平和会館。館内には特攻隊員の遺影、遺品、絶筆など多くの展示物がある。 |
▲ 平和会館近くに再現された三角兵舎。 |
▲ 平和会館周辺には様々な慰霊碑や記念碑が建てられている。これは「慟哭、誓いの碑」で世界平和の誓いが込められている。 |
▲ 「ホタル館・富屋食堂」。中は資料館となっているが外観は特攻隊員たちが通った当時の姿が復元されている。食堂の女主人鳥浜トメは特攻隊員たちの世話をし、特攻おばさんと慕われていた。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2009年5月3日 |
主要参考資料 | 「特攻のまち・知覧」他 |