摩文仁の丘
(まぶにのおか)

沖縄県糸満市摩文仁


▲ 摩摩文仁の丘を背景にした「平和の丘」モニュメント。この隆起珊瑚礁の丘陵は沖縄防衛の陸軍
第三十二軍最後の地となったところである。現在は「平和の広場」として整備されているが、かつては
この地で米軍戦車と爆雷を抱いて突進した日本軍兵士との死闘が繰り広げられた場所なのである。

沖縄戦、
     終局の地

 昭和二十年(1945)四月一日、米軍の嘉手納海岸への上陸によって始まった沖縄の地上戦も五月中旬には、沖縄防衛の第三十二軍が司令部を置く首里近郊にまで米軍が迫ってきた。いよいよ首里城を中心にして築いた複郭陣地に立て籠もり最後の攻防戦を展開しようと軍隷下の諸部隊も首里周辺に集結しつつあった。

 しかし第三十二軍司令部では本土決戦の時間稼ぎのためにも首里で玉砕するのではなく、戦線を後退させてでも戦闘を続行すべきであるとして、南部(喜屋武(きやん)半島)後退の方針を固めたのであった。

 五月二十二日、南部後退の命令が下達され、この日から数日の間に各部隊は首里戦線を放棄して南へと向かった。

 人の住まない場所で単に軍隊同士が争う戦いであれば将棋の駒を動かすように作戦を立てればよいであろうが、現実はそうではない。米軍の上陸から首里攻防に至るまでの作戦域は当初から軍の想定していたことで、その地域の住民の避難や疎開は進んでいたと云われているが、沖縄南部地域の住民の避難はそれほど進んでいなかったようである。したがって軍による突然の作戦転換はこの地域の住民の多くを巻き込むこととなり、それによって引き起こされた悲劇はあまりにも深刻なものであった。軍の後退とともに住民もその後を追って避難をはじめたが、それは米軍の砲爆撃にさらされながらの移動であり、多くの老幼婦女子がその途中で悲惨な死を遂げたのである。

 五月二十七日夕刻、軍主力の後退に続いて首里陣地の洞窟(戦闘指令所)にあった第三十二軍司令部(軍司令官・牛島満中将、参謀長・長勇中将)も後退した。梅雨期ということもあって軍の後退は米軍の急追を受けることなく予定通り進んだ。

 六月一日未明、軍司令部は摩文仁の丘の洞窟に設けられた戦闘司令部に到着した。後退の途中、米軍の砲撃や梅雨の合間に飛来する米軍機による攻撃で犠牲となった住民の遺体は野ざらしとなり、その惨状は地獄絵そのものであったという。

 米軍上陸の時点で約十万の兵力であった第三十二軍もこの頃には三万に減っていた。しかもその半数は臨時召集の県民で、軍人ではない。

 十七日になると南部戦線の重要陣地であった八重瀬岳と与座岳の戦線が米軍によって突破され、摩文仁の丘近くにまで敵が迫ってきた。

 この日、沖縄攻略軍である米第10軍指揮官シモン=バックナー中将から牛島軍司令官のもとに降伏勧告状が届けられたが、司令官にはこれに応じる気はなかったと思われる。

 ちなみにバックナー中将はこの翌日十八日に日本軍の砲撃による破片を胸に受けて戦死してしまった(米国陸軍省編「OKINAWA」)。

 この十八日、牛島軍司令官は、彼我混戦の状況下においては各部隊の把握及び指揮連絡は困難であると判断し、軍としての最後の命令を下した。
「…自今諸氏は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ…」
 というものであった。続いて大本営に向けて決別の電報が打たれた。

 この夜、軍司令部の洞窟からは司令部付きの参謀四名が敵地に潜入して残存部隊を指揮するために出撃して行ったが、いずれも戦死もしくは消息不明となった。

 二十一日、ついに摩文仁の丘前面に米軍戦車が迫った。二門の高射砲による水平射撃によって数輌の戦車を破壊したものの反撃の集中砲火を浴びて全滅してしまった。あとは爆雷を抱いての肉弾攻撃が続けられた。

 翌二十二日、喜屋武岬方面で奮戦していた第六十二師団長以下師団隷下の将軍たちが自決、半島中部の真壁付近に孤立した第二十四師団でも師団長以下全軍が敵陣に斬り込んで戦死した。

 この日は摩文仁の丘司令部洞窟周辺にまで米兵が迫り、洞窟の上である丘の山頂部も制圧されてしまった。洞窟の開口部は陸側と、その反対側の海側の2ヶ所あるが、陸側は米兵の侵入を防ぐために塞がれた。

 牛島中将は丘の山頂で自決しようとしたがそこは敵の制圧下にあった。山頂奪還の部隊を出したが失敗に終わっている。

 二十三日黎明、海側の開口部付近の岩場で牛島軍司令官と長参謀長は割腹自決を果たした。

 その後も米軍による掃討作戦は続き、七月二日に至って米軍の琉球作戦の終了が宣言された。

 ▲ 摩文仁の丘の第三十二軍司令部洞窟付近から眺めた沖縄の海。当時、この海面は
米軍の艦艇で埋め尽くされ、降伏を呼びかける小型艇が岸近くを往来していた。


▲ 牛島軍司令官が自決を果たそうとした丘の山頂には「黎明之塔」が建っている。

▲ 第三十二軍司令部勇士に捧ぐ慰霊碑「勇魂の碑」。

▲ 軍司令部洞窟跡。海側の開口部である。この近くで軍司令官と参謀長は割腹自決を果たした。
 ▲ 現在、丘の上には各県の慰霊碑が整然と並んでいる。これは国によって建てられた「沖縄戦没者墓苑」である。
 
▲ 各県の慰霊碑が並ぶ区画のひとつに「義烈」と刻まれた碑がある。米軍に占領された読谷飛行場に特攻出撃した「義烈空挺隊」の慰霊碑である。
 
▲ 摩文仁の丘とその周囲は平和祈念公園となり、広場には国の内外、軍民間を問わず沖縄戦で亡くなった人々の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」と名づけられた記念碑が屏風状に立ち並んでいる。
 ▲ 公園内には「沖縄県平和祈念資料館」が建てられ、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝え続けている。
 
▲ 平和祈念資料館前に展示されている沖縄戦当時の兵器の残骸。
 
▲ 平和の丘の向かい側に建つ「沖縄平和祈念堂」。

----備考----
訪問年月日 2007年8月
主要参考資料 「沖縄 非遇の作戦」他

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