仁宇城
(にうじょう)

徳島県那賀郡那賀町和食


▲ 仁宇城址の北側は那賀川の清流に洗われた断崖絶壁となっている。

仁宇谷の押え

 この城は藤原兼時の末裔湯浅対馬守が当地に土着して仁宇氏を称したことにはじまると言われる。戦国期には仁宇伊豆守が仁宇谷一帯を押えていた。

 天正五年(1577)以降の長宗我部氏による阿波進攻に際して仁宇氏は、はじめ対立していたが後に長宗我部元親と姻戚となって土佐方に降った。

 天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐によって阿波には蜂須賀家政が入国した。

 新国主蜂須賀氏は国内の土豪層の所領を全て没収し、改めて与えるという方法をとった。こうしたやり方に不満を持ったに仁宇谷の土豪たちは伊豆守を中心にして蜂起した。仁宇谷一揆と呼ばれるものである。

 この一揆に対して蜂須賀家政は重臣山田八郎右衛門宗重に鎮圧を命じて軍を進めた。

 鎮圧後、仁宇城には山田宗重が入り、「山林逆賊押え」として兵三百が常駐することとなった。いわゆる阿波九城のひとつとして仁宇城は蜂須賀氏による国内支配の重要拠点として維持され続けるようになったのである。

 慶長二十年(1615)、幕府は一国一城令を出したが、阿波九城は寛永十五年(1638)まで維持された後に廃城となった。

 仁宇城は和食城とも呼ばれており、多くの資料が那賀川沿いに築かれた縄張・遺構の図を載せており、現在の蛭子神社とその周辺部を城址としているようだ。

 ところが、「仁宇城址」の石碑が建てられている場所は違う所にある。蛭子神社南の国道195号を西へ約2kmほど行った那賀町仁宇にある。

 なぜ、という疑問が生じるが、それは専門家による今後の研究成果を待つほかないだろうが、せめて石碑を建てる際にその経緯を記した説明板を併設して欲しかったと思う。
 ▲ 仁宇城、別名和食城の跡として多く紹介されている蛭子神社。
▲ 神社前に建つ「大楠公之像」。かつて阿波の山岳武士の多くが南朝方にあったが、この像はそれを後世に伝えるために建てられたのであろうか。

▲ 境内地には土塁跡?と思われる部分が数ヶ所見られる。

▲ 神社東側に残る堀跡。

▲ 境内地には樹齢数百年と思われる大樹が幾本も聳えている。こうした古木に寄生するボウランの北限地としても知られている。

▲ 那賀町仁宇に建てられた「阿波九城・仁宇城址」の碑。

----備考----
訪問年月日 2010年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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