「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


三章、 家康弾劾 

 敦賀に戻った吉隆は越前、加賀、若狭の諸大名に家康討伐と豊臣方への参陣を呼びかける三成連署の檄文を発した。
 ちなみにこの方面のおもな大名を列記してみる。
 若狭では、
 小浜城主木下勝俊六万二千石、
 高浜城主木下利房二万石、
 丹羽家家臣で国吉城主江口正吉一万石。
 越前では、
 敦賀城主大谷吉隆五万七千石、
 北ノ庄城主青木一矩二十万石、
 東郷城主丹羽長正五万石、
 大野城主織田秀雄五万石、
 府中城主堀尾吉晴五万石(城代堀尾宮内)、
 丸岡城主青山宗勝四万六千石、
 今庄城主赤座直保二万石、
 安居城主戸田重政一万石。
 加賀では、
 金沢城主前田利長八十三万五千石、
 小松城主丹羽長重十二万五千石、
 大聖寺城主山口宗永五万石。
 このうちの越前府中城主である堀尾吉晴のみが任国を離れて遠江浜松にいた。もともと吉晴は浜松城主であったが、この時期は息子の忠氏に譲って隠居していたのである。越前府中の五万石はその隠居料で、現地には家臣の堀尾宮内が城代として赴任していた。
 この三ヵ国の諸大名は家康の会津征伐に従うための準備段階にあり、いまだ在国の状態であった。これから出陣というときに三成と吉隆の檄文が各大名に届けられたのである。とりあえず出陣は見合わせ、状況の推移を見極めようというのがこの方面の大勢となった。
 四日後、大坂から敦賀の吉隆のもとへ家康討伐に関する正式な書状が届いた。
 それは、
 「内府ちかひの条々」
 と題された十三箇条からなる家康弾劾の書であった。「ちかひ」とは「違い」のことである。
 要約すると、
 一、石田三成、浅野長政の二人の奉行を大坂から追放した。
 一、上杉討伐を独断で実行しつつある。
 一、前田利長から人質(利家の正室)をとった。
 一、知行を独断であてがっている。
 一、伏見城の留守居(前田玄以)を追い出して軍勢を入れた。
 一、勝手に諸侯と誓紙を交わしている。
 一、大坂城西ノ丸の北政所(秀吉の正室)を京に追った。
 一、西ノ丸に本丸のような天守を築いた。
 一、諸侯の妻子をひいきによって国許に帰した。
 一、勝手に諸侯と縁組みしている。
 一、若衆を扇動、徒党を組ませた。
 一、他の大老衆を無視して独断で決裁している。
 一、独断で検地の免除(石清水八幡宮)をしている。
 というものである。家康の五大老、五奉行制の有名無実化と太閤秀吉との誓約違反を具体的事例をあげながら糾弾していた。この書状を一読すれば秀吉亡き後の家康の傍若無人ぶりがよくわかる。
 この十三箇条の書状とともに家康討伐の檄文も添えられていた。両書状ともに大老の毛利輝元、宇喜多秀家、奉行の前田玄以、増田長盛、長束正家の五人の署名が連ねられている。この中に三成の名がないが、それは奉行筆頭である三成までもが家康の非道によって大坂を追放させられているという現実を強調するためである。書状の作成者は言うまでもなく三成である。
 その三成、佐和山で吉隆、恵瓊を送り出した後もなお三日ほど城中に留まって家康弾劾の十三箇条や討伐の檄文、各地の有縁の武将に対する協力要請の手紙などを書き送ったりしていた。三成が佐和山城を出たのは七月十六日であった。

 大坂では十三日夜に大坂城へ入った三成の家臣島左近の部隊による戒厳令が大坂の街を震撼させていた。
 左近は大坂城に到着した夜、増田、長束の二奉行に対面して家康討伐に関する三成の意向を伝え、即刻豊臣の旗本勢を動員して在大坂の諸大名の妻子を大坂城内に拘束するように要求した。五人の奉行のうち三成と浅野長政は家康によって蟄居させられ、前田玄以は京方面にあり、大坂には増田、長束の二人の奉行しかいなかったのである。
 二奉行は三成の挙兵に驚くと同時に三成の意志を伝えに来た甲冑姿の左近が鬼のように見えて、思わず震え上がってしまった。
 この夜遅くに下城した奉行の増田長盛はあまりの大事に自分が連座することの不安を打ち消すかのように家康宛ての手紙を書いた。
 「大刑、石治少が出陣の申分」
 をしたという短い手紙であった。大刑とは大谷吉隆、石治少とは石田三成のことである。この手紙が三成挙兵を報ずる大坂から家康への第一報となる。長盛は使いの者に手紙を持たせて江戸へ送り出すとようやく安堵の眠りに就いた。
 翌日からは人質拘束作戦がただちに実行に移された。
 まず逃亡を阻止するために守口、四天王寺などの街道口や安治川、木津川の河口などに番所を設け、夕方以降は各町筋の木戸を下ろして通行を禁止するなどの処置がとられた。そして戒厳奉行となった増田長盛は率先して諸大名の大坂屋敷に乗り込み、その妻子を大坂城内に拘束する作業の指揮を執った。
 この大坂方による拘束作戦によって、後日天下分け目の大合戦に発展する最初の犠牲者が出た。細川忠興の妻玉子、洗礼名ガラシャが大坂城に入ることを拒絶して放火、屋敷もろとも灰になっての抵抗を示したのである。
 三成が大坂城に到着したのはちょうど細川屋敷が炎に包まれているときであった。ことの次第を聞いた三成は佐和山で別れる際の吉隆の忠告、人質を取ることの非であることを思い出して即座に拘束作戦を中止させた。
 こうした大坂の状況は家康に随伴して関東へ下った諸大名の大坂屋敷から逐一情報が流れ出ており、とくに反三成派の大名の結束を一層強める結果となっていた。

 三成が佐和山城を発った日の夜、安国寺恵瓊の進言によって家康討伐の総大将を引き受けた毛利輝元が海路一万七千の軍勢を率いてはやくも大坂に到着した。毛利勢は他に二万が山陽路を駆け上りつつあり、この数日後には四国から長宗我部盛親が六千を率いて到着する。すでに大坂に集結している宇喜多秀家勢一万五千、小西行長勢六千などを含めると、大坂に馳せ参ずる将兵はなんと七万に達した。
 わずか数日のうちにこれだけの軍勢が終結するとは予定のこととはいえ、三成は身体の震えがおさまらぬほどに興奮の絶頂にあった。
 三成は大坂へ着くとまず、木津の毛利屋敷へ挨拶のために出向いた。毛利輝元に大坂出馬の労をねぎらい、さっそく先の十三箇条と家康討伐の檄文の書状に署名を求めた。総大将の輝元が署名すれば、その時点で大坂方による家康討伐が公式に発令されることになるのだ。
 輝元は筆に墨を含ませると、
 「恵瓊との約定に相違あるまいな」
 と三成の上気した顔を冷ややかに見据えた。傍らには恵瓊も控えている。
 恵瓊との約定とは、佐和山城で恵瓊が要求した大老職筆頭、秀頼後見役という、いわば政務代行の権限を毛利輝元に認めよ、というものである。
 三成は二人の冷たい視線の意味するものが判って、今までの興奮が急に冷めていくのを感じた。
 家康にしても輝元にしても、誰もが私利私欲で動き、真に豊臣家のためを考えて行動している武将はいったい何人いるのか。大谷吉隆が損得抜きで自分に加担してくれたことの尊さを三成はあらためて噛みしめた。
 しかし家康は倒さなければならない。三成はいつもの冷静さを取り戻した。
 「約定の一件、承知してござる。毛利中納言様が秀頼公の後見役となれば豊臣の天下は安泰でござる。但し、それもこれも内府めを討ち滅ぼして後の事でござる」
 三成は恵瓊に目を移すと、 「恵瓊殿、新庄侍従殿への首尾はいかがでござった」
 と恵瓊の視線を跳ね返すように言った。
 恵瓊は十二日夜の佐和山城における会談後ただちに大坂へ戻り、出雲から明石に到着していた吉川新庄侍従広家に三成挙兵を報ずる使者を走らせた。事の重大さに驚いた広家は急いで大坂へ入り、十四日夜に恵瓊と会見した。三成が首謀者では家康にたいして勝利はおぼつかなしと広家は判断していた。そんな危険に毛利家をさらすことはできないと広家は恵瓊の説得に応じようとしなかった。恵瓊は広家が応じなければ腹を斬るとまで大言したが、広家はついに応じなかったのである。
 「中納言様が大坂方の総大将を引き受けたとなれば、いかに侍従殿といえども関東方にはしることはありえぬ」
 恵瓊は三成から目をそらした。
 恵瓊の言う通り大坂は日ごとに家康討伐に応じる軍兵で充満しつつあり、さすがの広家も家康に加担するとは公言できぬ状況になっていた。
 だが、広家は、
 「毛利家は三成の挙兵に関係なし」
 と密かに関東へ向けて密使を走らせていた。
 ともかくこの日、輝元の署名をとった三成は即座に参陣した諸将にたいして家康弾劾の十三箇条と家康討伐の檄文を公表した。これと同様の書状が各地の大小名にも発送され、同時に家康に対しても宣戦布告の通牒として送られた。
 敦賀の吉隆のもとに届けられたこれらの書状も能登、加賀、越前、若狭の北国諸大名の間を駆け巡った。

トップページへもくじへ 四章・北国戦線