「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


七章、 布陣 

 関ケ原の山中村に陣する吉隆のもとにも家康到着と杭瀬川の戦闘で西軍が勝利を収めたという報告が届けられたが、これと時を同じくして小早川秀秋の軍勢が関ケ原に進出して来た。
 吉隆は、この向背定まらぬ軍勢を松尾山の砦に布陣させることにした。
 三成と吉隆の作戦構想は関ケ原の西北、笹尾山から同じく南西、藤下の丘陵地にかけて西軍による戦線を形成し、中山道を進んで来る東軍を迎撃するというもので、松尾山は最前線から一歩さがった所に位置している。
 吉隆は小早川勢を松尾山に置いて、吉隆が直接指揮する軍勢を藤下の丘陵地及び山中村にかけて配置することにより不測の事態に対処できるように配慮した。
 小早川勢に松尾山布陣を指示した後、吉隆は戸田、平塚、小川、脇坂、赤座、朽木の各将を山中村の本陣に集めて布陣先を明示し、戦闘準備に入ることを命じた。
 関の藤川の右岸、松尾山を背にする藤下の丘陵地帯には小川祐忠を中心に脇坂安治、赤座直保、朽木元綱ら四千余を配置、吉勝、頼継の息子らには三千五百を預けて松尾山の小早川勢に対処できるように山中村に留めた。
 そして吉隆は六百の手勢を率いて平塚為広、戸田重政ら千五百とともに関の藤川岸まで前進して布陣した。
 家康到着のその夜、三成が宇喜多、島津、小西の軍勢を率いて大垣城から関ケ原へ移動してくる手筈になっている。そして家康は必ず、これを追いかけて来る。
 家康としては、野外決戦は望むところであるはずなのだ。城攻めは時間がかかる。その間に豊臣恩顧の諸将に心変わりが生じぬとも限らないのだ。家康は必ずこの関ケ原に駒を進めて来る。
 明日は、それほど広くもないこの野原に十数万の軍勢がひしめき、天下を二分する合戦が繰り広げられるであろう。

 吉隆指揮下の布陣が完了する頃、その日も暮れようとしていた。午後から降り始めた雨のせいもあって、秋の夕闇はいつもより早く訪れつつあった。
 布陣がひと段落すると吉隆は湯浅五介を呼んで松尾山の小早川秀秋の陣所へ赴いた。
 松尾山砦は元亀の頃、浅井長政によって織田信長の侵略から近江を守るために江濃国境に整備された砦群のひとつである。その後、浅井氏滅亡とともにこの砦も荒れるにまかせて放置されていた。それが、吉隆と三成の関ケ原決戦策によって再び生命を吹き込まれることになったのである。一足はやく関ケ原に着陣した吉隆らによって視界を遮る樹木が伐採され、簡単な陣屋や物見櫓が構築された。万一、家康が関ケ原における決戦に応じてこない場合、この松尾山の砦に拠って長期戦に備えることも考えていたのである。
 松尾山は曲輪構築のために掘り返した土が雨でぬかるみ、吉隆座乗の板輿を担ぐ足軽たちは幾度も足をとられていた。
 山頂の陣所で、秀秋は終始笑顔で吉隆と面談した。脇には重臣の稲葉正成が控えている。
 吉隆は多くを語らず、挨拶程度で秀秋の陣所を出て山を下りた。
 「殿、小早川の陣で三河訛りをちと耳にしました」
 五介が怪訝そうに告げた。
 「三河訛りか」
 吉隆は、あの優柔不断で向背定まらぬ秀秋が上機嫌であったわけを理解した。
 すでに秀秋の陣中には家康から目付として旗本の奥平貞治が派遣されていた。さらに小早川と徳川の橋渡しをつとめた黒田長政からも大久保猪之助が派遣されていたのである。
 この時点での秀秋の意志は家康に従うことに固まっていたのである。

 雨足はいよいよ激しくなり、あたりが完全に漆黒の闇に包まれた頃、大垣城から南へ向かって一筋の隊列が静かに伸び出した。三成による関ケ原転進作戦が開始されたのである。
 隊列の右手遠く、ちらと篝火が見える。南宮山東麓に布陣する長宗我部盛親の陣所である。その灯りを目印に、隊列は野口村あたりで西に転じた。南宮山の南麓にさしかかる隊列の先頭は石田勢、そして島津、小西、宇喜多の諸勢が続いていた。
 夜間とはいえ三万の軍勢が敵に気付かれずに移動するのは難しい。しかしこの夜は雨とそれに伴う漆黒の闇夜がこの移動を東軍の目から隠してくれたのである。
 三成は南宮山に近づくと馬首を転じてひとりで安国寺恵瓊の陣所へ向かった。あてにはならぬ男であったが、このまま素通りするのもしゃくだったからである。
 恵瓊はすでに寝込んでおり、三成は激しい雨に打たれながら出て来るのを待った。
 「忘恩の徒と後の世にその名を留めたくなくば、明日の狼煙を合図に内府の本陣めがけて打ちかかるべし」
 三成は馬上から吐き捨てるように伝えると、さっさと馬首を返して移動中の隊列に戻った。
 南宮山の南側は関ケ原を起点とする伊勢街道の道筋となっている。牧田川に沿っているため牧田街道とも呼ばれている。
 大垣城からの移動部隊はこの街道を関ヶ原に向かって黙々と進んだ。距離は約四里である。暗闇と雨と泥濘に悩まされながらの行軍で、関ケ原に出るまで三刻を要することになる。
 三成は先頭を進む島左近の部隊に追い付くと、
 「これより刑部の陣所へ行って手筈を整えてまいる。あとを頼む」
 と左近に伝え、関ケ原へ向かって街道を駆け出した。

 この夜、吉隆は関の藤川岸の陣所で三成の到来をひたすら待っていた。
 そばには降る雨も乾けとばかりに大篝火が燃やされている。そのせいか、吉隆のまとう白布が橙色に染まって見えた。
 三成が単騎、駆け付けて来たのは子の刻、降りしきる雨も小降りになった頃であった。
 三成は吉隆の前に現れると、
 「紀之介」
 とひとこと言ったきり、言葉に詰まってしまった。
 病魔に冒され、盲目にもかかわらずこうして戦闘準備を整えて待ってくれている吉隆に三成は感極まって何も言えなくなってしまったのである。
 「佐吉か」
 「うむ」
 「冷え込んできた。まずは火にあたって温まるがよい」
 三成は黙って大篝火のそばに寄った。
 吉隆は最初の朝鮮役の頃までは奉行職にあって三成らとともに豊臣政権を支えてきた。三成は吉隆が癩に冒されることさえなければ、ふたりで盤石な豊臣政権を築きえたであろうにと、悔やまれてならなかった。このようないくさもせずに済んだかもしれない。
 三成は頭の中から愚痴を払い出すように大きく吐息した。そして西軍勢の陣立てについて吉隆と意見を交わし、笹尾山から松尾山にかけて戦線を形成するという基本方針に沿って、各軍勢の布陣先を打ち合わせた。
 最後に吉隆は小早川の裏切りが確実であることを三成に伝えた。
 「なに、三河者が金吾(秀秋)の陣所にいるのか」
 吉隆は黙って頷いた。
 「あのたわけが」
 三成は闇空にちらちらと篝火が明滅して見える松尾山を見上げて怒りに震えた。
 しかし小早川勢の存在は大きい。
 「金吾など取るに足らぬ男であるが、田辺城と大津城に兵を割いているいま、小早川の軍勢一万五千には是が非でも働いてもらわねばならぬ」
 田辺城は家康に付いた細川忠興の父幽斎が兵五百で籠城しているもので三成はこれに対して一万五千の攻城軍を送っていた。さらに九月三日に突如反旗を翻して戦線を離脱して行った京極高次の居城大津城に対しても毛利勢一万五千を充てている。この三万の攻城軍と大坂城に待機している毛利輝元以下の四万四千の軍勢を結集すれば兵数においては東軍を圧倒的に凌駕しているのだ。しかし、現状は三成にとって厳しくなっている。
 三成は佐和山城下で秀秋に提示した将軍、関白職の一件を認めた書状を出して吉隆に署名を求めた。
 あの時、三成は佐和山城から大垣城へ戻ると、先の一件を公文書の形にして、あらためて秀秋慰留のために使おうと諸将連署の書状にしておいたのである。
 すでに三成をはじめ長束正家、小西行長、安国寺恵瓊、宇喜多秀家の名が連署されていた。
 「利欲をもって誘うことに関しては内府のほうがおぬしより一枚も二枚も上手だ。今更このようなことをしても金吾を引き寄せることは難しいぞ」
 と言いながらも、視力がほとんど無くなっている吉隆は書面に顔を押し付けるようにして署名した。
 「だが、他に手立てもなかろう」
 三成は書状を懐に押し込んで、篝火のそばに寄った。
 吉隆も立ち上がって篝火に近寄り、三成と肩を並べた。
 「そうだな。願わくば豊臣武士としての義に目覚めてくれることを祈るしかあるまい。万が一の場合はわしが防ぐ。心置きなく内府の軍勢と正々堂々の戦いを演じてくれ」
 吉隆は七月の猛暑の中、佐和山城で三成から内府討伐の大事を打ち明けられた日のことを思い起こしていた。
 三成は別れ際、
 「わしは良き友をもった。死ぬるなよ。紀之介」
 と照れ臭そうに言った。
 秀吉に勤仕して以来、常に裏方として豊臣政権のためだけを考え、自身の周辺など省みることもなかったが、人生最大の山場を前にして、今更のように吉隆の友情の有難さが身に染みたのである。

 石田勢を先頭に関ケ原に入った各軍勢からそれぞれに松明をつけ、篝火を焚いて暖をとった。雨は上がり、火明かりを通して時折、白い霧が流れているのがわかる。
 三成は吉隆の陣所から関ケ原に到着しつつある各軍勢にそれぞれの布陣先を伝達すると滝川豊前守と矢田半右衛門に先の書状を持たせて小早川の陣所に向かわせた。そして自らは笹尾山に陣を敷いた。
 前衛に島左近勝猛と蒲生郷舎(さといえ)の兵各千を配し、豊臣旗本勢千を石田本陣右翼に配した。石田本隊三千八百余は笹尾山の周囲を空堀と二重の柵で固め、大筒数門を配置して戦闘準備を整えた。
 石田勢に続いて島津義弘勢八百が北国街道沿いに布陣。その前衛として豊久が兵八百を率いて前進位置についた。
 その南、北天満山に小西行長率いる六千が布陣、南天満山に宇喜多秀家率いる精鋭一万七千二百余が布陣して東軍を迎え撃つ態勢を整え終えた。
 これで西軍の関ケ原布陣は完了し、南宮山の諸軍勢を合わせると総勢八万六千余が三成によって結集されたことになる。
 これに対する東軍勢は八万八千余で、兵力的には東西拮抗しているが、西軍は決戦場を先取して有利な布陣態勢をとっている。地図上ではだれしも西軍の勝利と軍配を上げるであろうと思われた。
 大垣城から移動して来た石田、島津、宇喜多、小西の将兵たちは不眠不休の難行軍であったとはいえ、西軍優勢を確信しての士気は旺盛であった。
 さきに三成が松尾山の小早川の陣所に派遣した滝川豊前守と矢田半右衛門が笹尾山の三成の陣所に戻って来た。
 二人の報告によれば応対に出たのは稲葉佐渡守で、関白、将軍職の件を認めた書状を慇懃に受け取り、
 「狼煙を合図に必ずや徳川勢を蹴散らして御覧に入れましょう」
 と上機嫌であったという。
 三成は秀秋の翻意がいまだ確定的なものではないと判断した。
 しばらくして三成の陣所には物見からの東軍に関する情報が次々に届けられ、騎馬伝令が各陣所の間を盛んに往来しはじめた。

 家康が西軍の移動を察知したのは石田勢が関ケ原に到着した頃で、殿軍の宇喜多勢が牧田街道にさしかかった頃である。
 報告を受けた家康は直ちに出陣を全軍に下令し、中山道を関ヶ原に向かい、桃配山に本陣を置いた。全軍が戦闘位置についたのはちょうど西軍の宇喜多勢が南天満山に布陣したのと同じ時分であった。
 布陣は西軍主力の石田、島津、小西、宇喜多の各軍勢に相対するように四段の陣に構えた。
 先陣を構成する第一陣は笹尾山の正面丸山から南天満山正面にかけて黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、筒井定次、田中吉政、福島正則らの軍勢合わせて二万五千余である。
 第二陣は井伊直政、松平忠吉、藤堂高虎、京極高知らの軍勢一万二千余である。
 第三陣は古田重勝、織田有楽、金森長近、生駒一正、寺沢広高らの軍勢六千八百余である。
 合わせて四万四千余の軍勢が関ケ原に展開した。
 そして第四陣が家康とその旗本勢三万の軍勢で関ケ原の東端、中山道に沿って待機した。
 その後方には南宮山の毛利勢に対処して有馬豊氏、山内一豊、浅野幸長、池田輝政ら一万四千の軍勢が置かれた。
 家康ははじめから松尾山の小早川勢に対処することをしなかった。

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