(あそうだやしき)
▲ 麻生田屋敷は贄掃部の屋敷跡と伝えられるもので
あるが、その実態は消滅状態にあって詳細は分らない。
(写真・屋敷跡地の一部とされる玉林寺。)
戦場の猛者、贄掃部
麻生田屋敷は江戸期に著された三河地域の地誌「三河国二葉松」の三州古城記には麻生田村古屋敷として記載されている中世城館跡である。遺構は明確ではないが、屋敷跡とされる玉林寺の周辺には土塁状の遺構が散見されるものの確実なものではないようだ。同じく「二葉松」には同屋敷の項に「贄掃部」とのみ記されている。 |
結果は真田方の巧みな防御戦術に翻弄され、多くの犠牲をだしての惨敗となってしまった。重臣本多正信は勝手に軍を動かして城攻めに至ったのは軍令違反であるとして牧野康成と大久保忠隣に現場の指揮官の切腹を命じたのである。大久保忠隣は旗奉行杉浦惣左衛門を切腹させたが、牧野康成は贄掃部を庇って責任は我にありとして切腹させることを拒否した。しかも嫡男忠成は贄掃部を伴って出奔してしまったのである。秀忠もこれには怒り、康成は上野吾妻に蟄居させられてしまった。 |
▲ 玉林寺の西側住宅の裏に残る土塁状の遺構。 |
▲ 土塁状の遺構の長さは30mほどある。 | ▲ 玉林寺境内の大楠。樹齢は約600年といわれるから、贄掃部もこの大木を見上げて育ったことになろうか。 |
▲ 玉林寺のクスの説明板。屋敷跡の説明はありませんでした。 |
----備考---- | |
---|---|
訪問年月日 | 2013年2月24日 |
主要参考資料 | 「愛知県中世城館跡調査報告書」他 |