文殊山城
(もんじゅやまじょう)

                   新城市作手清岳          


▲ 文殊山城址には物見櫓と柵が再現され、物見の砦であった当時を偲ばせている。

里の守り、
     作手の目

 文殊山城のことで知り得ることは、元亀年間(1570〜73)に武田氏との和睦の証しとして奥平氏が築くはずであったが、延引したために武田氏の強談に合い、一夜にして築いた、ということ位である。別名一夜城とも云われているそうだ。
 確かに、城の縄張りは山頂部を削平してその周囲を土塁で囲んだだけの簡素なもので、短時日で築くことも可能かと思われる。
 立地は作手盆地を見下ろす最高所に位置しているため、ここからは集落を一望できるほか、遠く本宮山方面まで見渡すことができるのである。物見の砦としては絶好の場所であろう。
 奥平氏の本城である亀山城は集落を挟んだ南東正面にあたる。無論、遮るものは何もない。亀山城は比高20bと低いため、集落の内に対しては行動し易いのであるが、外に対しては盲目同然なのだ。
 文殊山城は武田に強要されて築いたというより、もともと奥平氏の物見砦として古くから機能していたのではないだろうか。つまり、亀山城の目の役割を果たしていたものと思われる。
 武田氏と和睦した同時期に尾根続きにある塞之神城も和睦の証しとして築かれたと云われている。そして塞之神城には武田氏によって手が加えられた形跡があるが文殊山城にはそれが見られない。武田氏にはさほど重要視されなかったものとみられる。
 江戸時代、この城跡に地元民によって文殊菩薩像が安置された。そして山麓の善福寺の奥之院となった。
 戦国の世につわものたちが寝ずの番をしていた城跡も後の世には信仰の山としていき続けたのである。
 城跡に至る山道には石仏が随所に置かれている。訪れる者たちに進むべき道を指し示すかのように、路の端で見守ってくれていた。
 ▲ 城址中央には文殊菩薩の安置された文殊堂が建てられている。
▲ 櫓からの眺望はすばらしい。東三河の山並みが一望である。

▲ 城址に建てられた説明板。
----備考----
画像の撮影時期*2008/04

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