塞之神城
(さいのかみじょう)

                   新城市作手清岳           


▲ 塞之神城の本丸跡。説明板の左が虎口となっている。

物見の砦

 塞之神城は作手郷を本拠地とする奥平氏のの居城亀山城の周辺に築かれている城砦群のひとつであるが、その来歴については不明とされている。
 案内資料によれば奥平氏が武田氏との和睦に際して築かれたとあり、また奥平氏来住以前の米福長者(三河三大長者のひとり)時代に存在していたとも云われている。これは普請状況から二時期にわたって構築されているとの見解から引き出された仮説なのであろうか。いずれにせよ、史料に残されていないがゆえに来歴不明とせざるを得ないのであろう。
 しかし城跡は現に存在して私たちの眼にその姿を見せてくれている。僭越のそしりを覚悟で、今一度時をさかのぼってみたいと思う。
 まず、米福長者である。作手郷開拓の祖とみられるこの長者は天平期には作手に居たとされているから奈良時代の人である。当然のことながらその事跡に関しては伝承の域を出ず、地元の昔話として語られているのみである。その昔話を覗いてみよう。村にはのどかな田園風景が広がり、人々が平和に暮らしている様子が見えてくる。長者は豊かな米を使って酒を造り、祭礼の日には酒蔵を開いて誰もが自由に酒を飲めたという。この米福長者の子孫がいつ頃まで続いたのかは分からない。
 しかし奥平氏が来るまでこの作手を支配していた者がいたはずであり、土地を守るための施設があって当然である。塞之神城はそうした施設のひとつとして存在したものではなかったか。村を一望し、街道を監視するための物見の砦である。
 当然のことながら南北朝末期に当地へ来住した奥平氏もこの砦を活用したことは考えられる。
 そして戦国時代の元亀三年(1572)、奥平氏は武田氏に降った。当主奥平貞能(亀山城)は次男仙丸を人質に出し、さらに武田軍の作手進駐を受け入れた。
 この時に武田方の拠点として築かれたのが古宮城である。塞之神城はこの古宮城の背後に位置しており、平地に築かれた古宮城を補完する意味で重要視されたはずである。
 いま、城址への路を歩けば大きな堀切に行く手を遮られている箇所がある。明らかに武田方によって改修された跡であり、出丸から二ノ丸を経て本丸に至る形態は奥平式(亀山城、川尻城)でないことは確かである。
 したがって塞之神城は物見砦として古くから存在していたのであるが、戦国期に武田方の進駐によって古宮城が築かれ、これと同時期に山城へと改修されたものであろう。
 ▲ 城址に至るにはこの堀切を経なければならない。堀切の向こうは出丸である。出丸、二ノ丸を経て本丸に至る。
▲ 本丸を囲む土塁。本丸は土塁によってほぼ四角に囲まれている。
----備考----
画像の撮影時期*2008/04

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