道目記城
(らいごうまつじょう)

                   新城市富永           


▲ 城址の大部分は宅地、畑地と化し、城域の中央部分を鉄道が貫通している。かろうじて
城の北側土塁の一部が残存しているのみである。土塁上には稲荷が祀られている。

門前に
       日輪を迎えん

 この来迎松城は室町から戦国期にかけてこの付近一帯を領した設楽氏の城館群(増瑞寺屋敷岩広城川路城、小川路城、川路端城)のひとつである。
 設楽家系図に、正和元年(1312)設楽重清が振草荘(設楽城)から来て岩瀬城(岩広城)を築き、属城として来迎松城を築いた、とある。
 後にこの城は設楽一族の夏目氏が居城とした。「南設楽郡誌」には家臣夏目宮内小輔信久、同宮四郎入道清宗が守って居た、とある。
 永禄四年(1561)、川路城主設楽越中守貞通は今川氏を離れ、岡崎城の松平元康(徳川家康)に従うことを決めた。この当時、東三河の多くの国衆はまだ今川氏に属していたため、貞通は孤立してしまった。結局、城を脱して一家共々岡崎へ移らざるを得なくなってしまった。
 この時、一族の多くが貞通に従わずに今川方に残ったなかにあって夏目氏は貞通と行動を共にした。
 元亀四年(1573)、武田信玄が野田城を囲んだ時、城主菅沼定盈の援将として設楽貞通が家康の命を受けて野田城に入った。この時、貞通とともに家老夏目惣兵衛も野田城に入ったことが諸書に記されている。同年二月、野田城は落城したが、貞通と惣兵衛は城を落ちて家康のもとへ戻った。
 この頃、地元に残っていた設楽一族の多くは武田方に属していた。弱小勢力が生き残るためには、これも無理からぬことであった。
 天正三年(1575)五月、武田勝頼と決戦のために織田、徳川の大軍が設楽原に布陣した。貞通率いる設楽勢五百は徳川勢の最右翼に布陣した。この中に夏目宮四郎清宗がいた。宮四郎は弓の名手として知られている。
 宮四郎は明日にも戦場と化すであろうわが故城に立ち寄った。城内は荒れ果てていたが、生まれ育った場所である。懐かしい。この日、宮四郎はここで夜を明かした。
 城の大手に松の古木が二本ある。かつてはこの二本の松の間から陽が昇るのを毎朝合掌して迎えたものである。城の呼び名もいつしか来迎松城と云われるようになっていた。
 宮四郎は久方ぶりに松の間から昇る日輪に合掌した。武功を念じたのか、戦いの無い世を願ったのか、それは現代に生きる我々には思い及ばぬことなのかもしれない。
 この日の夜、宮四郎ら設楽勢は豊川を渡って大きく前進して陣を張った。
 翌早朝、徳川勢による鳶ヶ巣山砦の奇襲が成功し、そこから敗走してきた武田勢を設楽勢は散々に討取った。宮四郎も得意の弓矢で大活躍を果たした。
 戦後、家康は夏目宮四郎に褒美と感状を与え、その働きに報いた。

▲ 新城市によって土塁脇に建てられた「来迎松城跡」の標柱。土塁の内側部分にあたる。
----備考----
画像の撮影時期*2008/03
本文追加*2008/07

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