岩広城
(いわひろじょう)

                   新城市富沢           


▲ 岩広城大手門跡に建てられた「岩広城址」の標柱。場所は城址本丸の北東角にあたる。

設楽氏、本城跡

 設楽氏の発祥は正暦五年(994)に伴助高が設楽郡の郡司となり、後に姓を設楽に改め、館(増瑞寺屋敷)を設けたことにはじまる。
 その後、設楽氏は武士化して平安、鎌倉の両時代を生き抜き、鎌倉末期の正和元年(1312)に設楽重清がここ広瀬郷に城を築いて本拠としたとされている。
 ただし、設楽重清が伴助高の直系の子孫なのかは、よく分からない。一般的には設楽左馬頭重清は正和元年に振草荘(北設楽郡東栄町/設楽城)を去ってここにやってきたということになっている。このあたりの経緯に関しては不明であるが、一族内で権力争いのようなものがあった可能性もありそうである。
 ともかく、重清の子孫は岩広城を本城として周辺地域に根付いていった。
 東三河の国人武将として菅沼氏や奥平氏は山家三方衆として戦国の歴史によく登場するが、同じ東三河の国人でありながら設楽氏の存在はあまり表立っていない。これは支配地域が限定的であったことと他家との争いを好まなかったためと思われるがどうであろう。
 応仁の乱(1467)後、世は戦国の様相が色濃くなってゆく。岩広城の設楽氏も重清の十七代後の貞重の頃には東三河諸氏とともに駿河・遠江の守護大名今川氏の勢力に属していた。
 この頃には世相を反映してか、領内の要所に城や砦が築かれた。それが来迎松城、川路城と呼ばれるものである。
 岩広城は三方を豊川と半場川に囲まれて絶壁となっており、北側の一方のみが堀で守られている。城としては最も古い形態であるとされている。
▲ 岩広城の遠景。一面の畑地であるが、中央に見える木々に囲まれて奥まった一画が本丸跡である。
----備考----
画像の撮影時期*2008/03及び04

 トップページへ三河国史跡一覧へ