設楽城
(したらじょう)

                   北設楽郡東栄町大字中設楽          


▲ 設楽城の本丸東南に残る土塁上に建てられた城址碑。

消えた城主

 設楽城は設楽氏の城跡で、設楽弾正が居城していたと伝えられている。設楽弾正がどのような武士であったのかは分からない。
 一般的には、設楽氏は北設楽郡の振草荘中設楽に起こり、左馬頭重清の代に岩瀬郷(新城市/岩広城)に移ったと云われている。時期は正和元年(1312)と云われ、鎌倉時代末期のことである。重清の移転に関しての事情や経緯については一切不明であり、また重清が設楽城主であったのかも定かではない。ただ、中設楽を発祥の地とするならば、ここ設楽城を根城としていたと考えられる。
 それにしても、先祖伝来の土地を捨て、全く別の地に移るということは、当時の武士が一所懸命の生き方をしていたことを思うと、余程のことがあったと思われる。しかし、今となっては追求のしようもないのかもしれない。「北設楽郡史」では戦国末期の伊藤氏台頭までの約二百年間は設楽氏による何らかの支配関係が存在したのではないかとしている。無論、確証はない。ただ、城跡のみが消えた城主の真実を秘めてそこにあるのみである。
 さて、伊藤氏である。伊藤氏がこの地域(東栄町本郷)にやって来たのは永正の頃(1504-21)といわれ、別所城を築いて本城とした。城主は伊藤左京亮貞久という。その伊藤氏が詰城として利用しようとしたのであろうか、すでに設楽氏の痕跡も消え、荒れ果てていたであろう、この城跡を整備した。
 その伊藤氏も貞久の子貞次の代にこの地を離れてしまった。元亀二年(1571)のことと云われている。戦国争乱の渦中にあって、伊藤氏に何があったのであろうか。
 ただ云えることは、設楽城からまた城主が消えてしまったということである。

▲ 二の丸南側の堀切跡。
 ▲ 本丸跡。土塁は城址碑の建つ一部分のみである。
▲ 二の丸には南側に半円形に土塁が残っている。戦国後期に伊藤氏によって改変されたものではないか。

▲ 本丸の北東隅の老木。木の全景が大黒様の頭巾に似ていることから「大黒杉」と呼ばれている。説明には、樹齢八百年と思われる、とある。
----備考----
画像の撮影時期*2009/02

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