別所城
(べっしょじょう)

                   北設楽郡東栄町大字本郷          


▲ 別所城跡の土塁上に建てられた城址碑。

山峡の戦国を生きた
           父子二代

 この父子二代とは、戦国時代に現在の東栄町一帯を勢力基盤とした伊藤氏のことである。
 ここ別所城はその伊藤氏が居城とした城である。城を構えたのは伊藤左京亮貞久という武士であった。貞久は工藤祐経の子祐時の末裔で、永正の頃(1504-21)に伊豆国下田から振草七郷の地頭として赴任したと云われている。配下に岡本の伊藤兵庫介、下田の伊藤八左衛門、足込の川合源三郎(川合砦)らがいたという。
 岡本と下田は現在の東栄町本郷地内で別所城から至近の所である。足込は足込川を3`程北上した所である。
 何れも山林地帯で、経済基盤となる耕作地は微々たるものであったはずである。したがって菅沼氏(田峯城長篠城)や奥平氏(亀山城)といった国人衆とは比肩するほどのものではなかったと思われる。領地支配を安定させるためには進んでその庇護下に入らなければならなかったはずである。
 貞久は長篠城の菅沼元貞(元直)に属してその勢力を保持しようとした。貞久の没年は永禄二年(1559)三月である。戦国動乱の荒波が伊藤氏の身に押し寄せようとしていた時であった。
 貞久の後は子の源太郎貞次が継いだ。当然、貞次も長篠菅沼氏に属して父貞久の代から今川方の陣営にあった。ところが桶狭間合戦で今川義元が敗死してから三河の情勢は大きく変わることになる。
 永禄四年(1561)、貞次は長篠の菅沼貞景とともに徳川家康に従うこととなった。永禄十一年(1568)、家康の遠州進攻にともない、貞次は一党を率いて菅沼貞景の軍勢に加わり、鶴ヶ城(浜松市天竜区佐久間町)を攻めた。続いて掛川城攻めにも加わった。この戦いは菅沼貞景が討死するほどの激戦であったから、貞次の一党の内からも戦死者が出たであろうと思われる。
 その後も貞次は菅沼貞景の子正貞に従い続けた。
 元亀二年(1571)になると武田信玄による東三河の攻略によって菅沼正貞ら山家三方衆が人質を出して武田方に降った。
 なぜか、貞次は菅沼氏から離れ、別所城をも捨て去った。そして間黒の庄(豊根村)に隠棲したと伝えられている(「本郷町史」)。
 戦国の非情、悲惨さに心を痛め、死んでいった者たちを弔うためであったのだろうか。
 ちなみに「北設楽郡史」には長篠合戦に敗れて甲州に奔ったとある。

▲ 城址北側に残る土塁の遺構。
 ▲ 城址北側の土塁跡の外側。あまり高さが感じられなくなっている。
▲ 城址の北側は東栄中学校の校庭に隣接している。

▲ 南側から見た別所城址。ガードレールの坂道を登った先が城跡である。
----備考----
画像の撮影時期*2009/02

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