鶴ヶ城
(つるがじょう)

              浜松市天竜区佐久間町浦川     


▲ 正面の山頂が城址である。下から見上げると、
鶴が舞い立つように見えるところから城の名となった。

戦国、落城物語

 永禄八年(1565)、北遠の国人奥山民部少輔貞益(高根城)は、三河からの侵入者に備えるため、国境に近い当地に築城して兵を置いた。城名を「鶴ヶ城」と名付け、守将となった城主も鶴山大磯之丞と名乗った。

 今川勢力減退の時期で三河では徳川家康が独立、東三河の諸氏は家康の傘下に入って遠江進出の機をうかがっていた。

 一方、南信濃方面からは武田の勢力が遠江侵略の動きを見せており、衰えたりとはいえ今川の力を頼みとする奥山氏は北と西に敵を持つこととなってしまったのである。

 永禄十一年、徳川方の軍勢が動いた。本郷別所城(現・東栄町)の伊藤源太郎貞次と長篠城(現・鳳来町)の菅沼新九郎貞景の軍である。

 鶴山大磯之丞は味方に援軍の要請は出したものの武田にも備えなければならない状況下ではあてにならぬことは分かっていた。孤軍奮闘の決意のもとに二百余の城兵は必死の戦闘を続けて持ちこたえた。

 しかし多勢に無勢、やがて糧食も尽き、疲労困憊、誰の目にも落城は必至と思われた。全員討死の覚悟を決め、最期の一戦に討って出ることになった。

「死に急ぐことはない、戦いはこれからも続く。この場はわしが腹を切って済ませよう」
 大磯之丞は自分の命と引き換えに城兵の命を助けようとしたのである。

 交渉はまとまり、人質には家老の山田半之尉と大磯之丞の嫡男熊千代丸がなり、その間に切腹することになった。この時、奥方きくも共に自害して果てたという。

 やがて、世の中は元亀・天正の大動乱の時代へと移り、織田信長を中心にして日本史が動いて行くことになる。

 小さな山城の攻防がここであったことなど忘れられたかのようにして。

本丸跡の高根神社。城域全体が杉の密植林となっており、山頂からの展望は全くできない

▲本丸を取り巻く空堀。
----備考----
訪問年月日 2004年5月2日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他