道目記城
(ぞうずいじやしき)

                   新城市富永           


▲ 増瑞寺前に建てられた「増瑞寺山門跡」の石碑。この石碑の上部に「元設楽氏居館・旧御
朱印地」と刻まれている。この石碑脇の道の突き当りが増瑞寺で、設楽氏の居館跡である。

設楽氏発祥の地

 平安時代の正暦五年(994)、伴助高が八名・設楽両郡の郡司となり、後に姓を設楽に改めたのが設楽氏のはじまりとされ、郡司として八代続いたと云われている。
 設楽氏として最初にその名が登場するのは「保元物語」で、源義朝の手勢のなかに参州国の「設楽ノ兵頭武士」として出てくる。このことから武士化した設楽氏の姿が想像できよう。
 中世の武士の居館といえば堀と土塁に囲まれたものであり、そこは主人の住居であるとともに地域支配の中心でもあったのである。
 ここ増瑞寺屋敷も鎌倉期に設楽氏が設けた居館跡であるとされている。
 設楽氏は菩提寺として館のすぐ南に金剛山自性寺を建立した。
 鎌倉末期には、設楽氏は豊川沿いの岩広城にその本拠地を移し、さらに勝楽寺(新城市川路)を菩提寺とした。
 戦国時代、この付近は長篠・設楽原合戦の戦場となった所である。戦後、新城の領主となった奥平信昌(新城城)はここ設楽氏館跡に自性寺を再建して龍安山増瑞寺を建立した。
 増瑞寺屋敷の呼称はここからきている。
 今でも寺の西側には往時の堀跡が残っている。かつては水が引かれた堀であったということである。

▲ 増瑞寺境内の西側に残る堀跡。
----備考----
画像の撮影時期*2008/03

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