砦山城
(とりでやまじょう)

                   北設楽郡豊根村坂宇場           


▲ 坂宇場川の流れと砦山城。城址に至るには沢を渡って登ることになる。説明板には女人禁制、下足を
忌むとある。また延正の年に尹良親王がここに籠り足利軍と戦ったとあるが、延正とはいつのことであろうか。

伝説の皇子

 奥三河から南信濃、遠江北部にかけての山間部には南朝にまつわる遺跡や伝承が数多く残されている。ここ砦山城もそのひとつである。
 暦応元年(1338)に後醍醐天皇の皇子宗良親王が遠江の井伊氏に迎えられて三嶽城に籠り、足利幕府軍を相手に戦い続け、ついには信濃に落ち延びたというところまでは史実となっているが、その後の親王の足どりとなると諸書によってまちまちであり、さらに尹良(ゆきよし)親王の事蹟となるとこれはもう伝説の域であり、とても史実として実証することは困難であると思われる。
 しかし、伝説は歴史の側面を窺わせる誘い水のようなものである。そこから何かが見えてくるかもしれない。ここでは豊根村に伝わる南朝秘話を追ってみよう。
 遠江をはじめ各地で足利軍との戦いに臨んでいた宗良親王は、戦況が好転せず、しばし時を待たんと南信大河原の香坂高宗の館に潜むことになった。正平年間(1346〜1369)のことである。尹良親王の母は香坂高宗の娘であると云われている。
 長じて尹良親王は父宗良親王とともに上野国の南朝方寺尾城(群馬県高崎市)に駒を進め、上野宮と称されたという。天授元年(1375)、この寺尾城で城主世良田政義の娘との間に良王(よしおう)が誕生した。
 その後、尹良親王はここ足助荘奥郷(豊根村坂宇場)に駒を進めた。川宇連(かおれ)に居館を設けたのであろう、その地はいま御所平と呼ばれている。
 そして幕府方の来襲に備えたのがここ砦山城なのである。坂宇場川と日余沢に挟まれた天嶮である。幕府方との戦いに際して親王は妃を伴って籠城していたようで、妃はこの陣中で亡くなったと伝えられている。戦いは幕府方優勢で、親王は城を脱して信濃へ落ちたという。
「浪合記」には応永三十一年(1424)八月十五日浪合にて土賊に襲われ、生害したとある。

▲ 川宇連神社前に建てられた「尹良親王」の銅像。
 ▲ 砦山城の北約2`のところに川宇連神社がある。いうまでもなく尹良親王を祭神としている。
▲ 銅像の隣には碁盤石と呼ばれる大石が散在している。親王が碁を打っている時に敵が来襲したのでこの碁盤石をひっくり返して出発したという。
----備考----
画像の撮影時期*2007/04

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