和田城
(わだじょう)

                   新城市作手保永           


▲ 北側から見た和田城跡。向こうの最も高くなった茶畑が城址である。

七族座上、
       和田出雲守

 奥平家には七族五老という重臣制度がある。七族とは次・三男が別家を立てて臣列に連なったもので、いわば一門衆のことである。主に軍事面で重きをなした。五老は在地豪族の中から功績のあった者を家老として抜擢したもので、主に行政面を司ったといわれている。
 さて、ここ和田城の初代城主は和田出雲守貞盛という武将であった。貞盛は三河奥平初代当主貞俊の次男で、ここ和田の地を与えられて別家を立てたのである。おそらく、応永(1394〜1428)の後期から永享(1429〜1441)の頃のことであったと思われる。当然、一門衆である。
 しかも、和田の地は奥平の本拠地(亀山城)である作手郷へと続く街道を扼している。いわば作手防衛の最前線ともいうべき要地である。一門筆頭の面目躍如といったところであろう。
 その後、奥平宗家も代を重ねる度に別家が増え、三代目貞昌の頃には中金、石橋、稲毛、夏山、萩、田代、日近というように増えた。その中でも中金家と和田家は三河奥平家草創の頃からの一門で、とくに和田家は七族座上(筆頭)の地位にあった。
 天文六年(1537)、石橋弾正(石橋城)の謀反が発覚、それを上意討ちして鎮圧するという事件があった。この時に当主貞勝から鎮圧を命ぜられたのが和田貞盛の次男土佐定雄であった。
「定雄、賜うところの長槍を揮うて弾正をたおす(「中津藩史」)」
 定雄の率いる一隊はこの戦いで石橋家中四十二名を討ち取って功名を上げた。
 「作手村誌」には奥平勝次が石橋合戦の功により、四代貞勝からこの地を賜わり築城したとある。
 困惑、混乱極まりないが、もとよりこの地は出雲守貞盛を初代とする和田家の城地で定信、定行と続き、元亀(1570〜1573)の頃に武田方に属して甲州に移るまでここに居たと思われるが、どうであろうか。無論、甲州移転により七族座上の地位は剥奪された。武田滅亡後、作手に戻って来たが、一族内における関係は冷ややかなものであったという。
 ▲ 城址から国道301号を望見。中央の山裾の道路が国道である。現在でも作手に至る唯一の街道である。
▲ 現在、城址はこの農道によって分断されている。道路の西側(右)が曲輪跡である。
----備考----
画像の撮影時期*2008/10

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