戦国期、糟屋宗則が居城。後に土豪の原田氏重がこれに代わった。ということ以外に城の歴史の詳細は分からないようである。
ただ、弘治二年(1556)に尾三国境の城として攻防の渦中にあったことが伝えられている。
これより以前、末森城を居城として三河へ勢力を拡大していた織田信秀は同じく三河へ進出している駿河の戦国大名今川義元の軍勢と小豆坂の戦いなどで衝突を繰り返していた。その信秀亡き後、信長が継いだが、国境の土豪らは次第に織田を離反して今川に属する者が続出してしまう。信長にとっては尾張国内の統一が最優先課題で三河への出兵どころではなかったのであろう。
弘治元年(1555)、織田信長は清州の守護代織田信友を滅ぼして守護斯波義銀を傀儡化し、清州城を居城とした。とりあえずは守護の権威を利用して国内を固めようとしたのであろう。当然、尾三国境に迫る今川勢力に対してもいつまでも指をくわえて見ている場合ではなくなってきている。
そこで信長は尾張東部の下社城を居城とし、勇猛果敢で名高い柴田勝家に福谷城攻めを命じたのである。
柴田勝家は十代の頃に織田信秀に仕え、信秀亡き後は信長の弟である信行の家老として仕えていた。おそらく信長は守護の名代として勝家に出動を命じたのであろう。
弘治二年(1556)正月、柴田勝家は荒川新八郎ら千余騎を率いて福谷城を囲んだ。
一方の福谷城の原田氏重のもとには今川の先兵として松平家臣酒井左衛門尉忠次が大久保五郎左衛門尉忠勝、渡辺八郎右衛門尉、筧助太夫、杉原八郎五郎、大原左近右衛門尉、阿部四郎五郎忠政、大久保次右衛門尉忠佐らを率いて駐屯、城を固めていた。
柴田勢の先陣早川藤六郎がいち早く福谷城の城戸に駆け寄ったが、城中の渡辺八郎右衛門尉がこれを射倒した。「早川が首を取れっ」と大久保五郎左衛門尉が城戸を開いて打って出る。そこへ「渡してなるものか」と柴田勝家みずから大久保に駆け寄り切り結ぶ。阿部四郎五郎が弓で柴田を狙い、大久保次右衛門が柴田の馬を突いた。
さすがの柴田勝家も松平勢の果敢な反撃に閉口したものとみえ、城攻めを断念して兵を引き返してしまった。
ということである。その後、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、松平氏は自立して信長と同盟、福谷城は国境の城としての役目を終え、廃されたと言われている。
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