はらみいしじょう
(はらみいしじょう)

                   掛川市孕石           

孕石城址
▲ 段々の茶畑から奥にかけての高台が城址である。手前の川は原野谷川である。

われ南を向きて
        果てん

 孕石氏の祖は中遠の国人原氏であるとされているが、原氏系図と孕石氏系図とが一致せず、また始祖の年代的位置付けも難しく、不詳とせざるをえないのが現状である。
 孕石氏の名の記された最初の文献は明応七年(1498)の今川氏親の感状である(林隆平著「掛川の古城址」)。この当時今川氏は遠江中部に対しての勢力拡大の時期で、この感状は原氏攻略に強力したことを賞したものである。このことは宗家である原氏に孕石氏が敵対していたことを物語っている。ただ、この感状の宛名は「孕石殿」とだけあるのみで孕石の誰であるのかはわからない。
 文献で孕石光尚と個人名の確認できるのが大永六年(1526)であるとされている。光尚は今川氏に忠勤を励み、天文年間(1532〜55)の初期には駿府に屋敷を得て居住していた。
 この光尚の後嗣が元泰である。元泰の「元」は今川義元から貰ったものであろう。天文の後期、元泰の屋敷の隣が三河からの人質である松平の御曹司竹千代の居所であったようである。いうまでもなく竹千代とは後の徳川家康である。元泰にとって竹千代は人質以外のなにものでもなく、後に遠江を平定しようとする戦国武将家康となってからも好意的ではなかったようである。家康の駿府時代の逸話としてこんなはなしが三河物語に載っている。
 孕石主水元泰の屋敷の隣が竹千代の居所であったばかりでなく鷹場も両者ともに近くであったようだ。ある日、竹千代が鷹狩りに出掛けたが、鷹が主水の鷹場に降りてしまった。仕方なく竹千代は主水の鷹場に入って鷹を連れ出した。主水はこれを見て、
「参州の倅には飽き飽きした」
 と云ったという。
 元泰と子元成は今川滅亡後、新たに駿河の支配者となった武田氏に従属した。
 元泰は武田の最前線である高天神城へ武者奉行として入った。同城の武田勢と徳川勢との戦いは天正二年(1574)から同九年にかけての長期戦となった。天正九年三月二十二日の夜、兵糧の尽きた城方はこれを最後と一斉に打って出、城は落ちた。この夜、元泰は不覚にも生け捕りになってしまったのである。
 家康は好意的でなかった元泰のことを覚えており、切腹を命じた。翌日、元泰は南を向いて切腹の座についた。三河では一向宗の西方浄土への往生を願って西を向くのが作法となっていたが元泰は、
「十方が浄土でどこを向くも随意なり、よく見ておけ」
 と南面したまま切腹して果てた。元泰にとってはこの切腹の座が最期の戦いの場であったといえよう。
 子の元成は後に井伊直政に仕え、大坂夏の陣で討死。元成の嫡子泰時は彦根築城のおり、縄張奉行をつとめた。
----備考----
画像の撮影時期*2005/12