平芝陣屋
(ひらしばじんや)

               袋井市浅羽        


▲平芝陣屋は三河譜代米津氏分家の遠江における陣屋である。
(写真・笹薮と化した陣屋跡)

旗本米津氏の陣屋

現在、平芝陣屋跡を訪ねると茶畑の一角の笹薮に覆われた場所に説明板と石碑が建っている。藪が酷くて遺構らしきものは確認できない。消えかかった説明板の冒頭に「ここは旗本米津周防守の陣屋跡である」とある。

米津(よねきつ)氏は三河国碧海郡出身の徳川譜代の家臣である。米津政信は元亀三年(1573)の三方原合戦で討死、子の田政(たまさ)は徳川家康の小姓として各地を転戦して武蔵国、上総国内に五千石を拝領した。次代の田盛(たもり)のとき河内国内一万石を加増されて一万五千石の大名に列した。貞享元年(1684)、家督を継いだ政武(まさたけ)は三千石を弟田賢(みちかた)に与え、一万二千石で武蔵国埼玉郡久喜に立藩した。

三千石で分家した田賢は食禄千石を加えて四千石の旗本となり、周防守に叙任された。元禄十一年(1698)、遠江国城東、山名、三河国宝飯の三郡の内に采地替えとなる。その後、代を重ねて明治に至る。

遠江国における米津氏の采地は二千五百石で、その内の浅羽では弥太井村、小口市場村、八幡村の三ヶ村で約五百石を領有していたとされ、その陣屋が平芝に構えられたのだろう。大正の中頃までは土塁と濠を廻らした40・50間四方の一廓が残っていたらしい。

明治三年(1870)、旧幕臣二十八世帯が当地に移住して開墾、茶を植えた。しかし翌年には事業不振により、一同離散してしまったとのことである。

なお、陣屋の長屋門は約2km南西の馬場(八幡神社前)の民家宅へ移築されていたが、老朽化のためか近年撤去されてしまっている。


▲陣屋跡に立つ説明板。

▲藪の中に石碑が建っている。

▲陣屋跡の周辺は茶畑が広がっている。

▲陣屋跡の説明板。

▲陣屋の移築門のあったところ。
----備考---- 
訪問年月日 2023年2月5日 
 主要参考資料 「寛政重修諸家譜」他

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