加賀爪氏館
(かかづめしやかた)

                   袋井市新池         


▲ 加賀爪氏館跡は宅地化や道路建設などによって消滅してし
まったと思われる。この交差点からアパート(茶色)方向に延び
る道路はかつての館跡を分断するかたちになっている。

戦国を生き抜いた
      加賀爪氏の古城

 加賀爪氏は戦国時代、この地(袋井市新池)を代々に渡って領し続けた今川家の家臣であり、後に徳川家に仕えて掛塚藩一万石の大名になった。
 現在その地を訪ねても宅地化が進み、かつての様子を偲ぶことすら難しい。近年までは一段高い平坦面とその周囲を方形にめぐる堀の一部が見られたというが、今では完全に消滅してしまったようである。
 しかし、その歴史は伝えられるべきものがある。
 加賀爪氏の初代となったのは八条上杉満定の子政定である。この政定が駿河守護今川範政の養子となり、加賀爪を称したことにはじまる。
 二代忠定は臣籍に下り、遠江国山名郡新池郷を与えられて居館を構え、土着した。以後、政泰、泰定と続いた。
 五代政豊の頃になると戦国の様相は激しさを増し、主君今川義元が桶狭間合戦(永禄三年/1560)で討取られてからは遠江における今川氏の支配力に陰りが見えはじめた。
 永禄十一年(1568)、甲斐の武田信玄が駿河に進攻、今川氏真は駿府を追われて遠江掛川城に逃げ込んだ。時を同じくして三河から徳川家康が遠江に進攻して掛川城に迫った。
 遠江西部の諸氏の多くは家康進攻を機に今川を見限り家康に臣従を誓った。加賀爪政豊も、主家に弓を引くことは辛かったであろうが、先祖の地とここに根付いた一族を守るために家康の陣に馳せ参じ、掛川城攻めに加わった。掛川城開城後、その功を認められた政豊は新池郷の所領を安堵された。
 以後、加賀爪氏は徳川家旗本として存続してゆくことになるが、簡単に記しておきたい。
 政豊の子政尚は幼くして家康に仕え、文禄元年(1592)には武蔵国比企郡及び相模国高座郡に三千石を拝領した。
 七代忠澄は町奉行、大目付となり、九千五百石の旗本であった。「忠」の一字は二代将軍秀忠から賜ったものといわれる。
 八代直澄は幼少より家光の小姓となる。若い頃は暴れん坊の旗本奴と呼ばれ、江戸中に鳴り響いたという。寛永十八年(1641)、遺領を継いで一万石の大名となり、掛塚藩を立藩した。寛文四年(1664)当時の知行地は遠江国豊田郡十二ヵ村四千三百六十九石、同国山名郡四ヵ村二千百三十石、武蔵国比企郡五ヵ村二千五百石、相模国高座郡二ヵ村千石と記されている。

▲ 加賀爪氏の菩提寺である栄泉寺。かつては館の北側に隣接して建てられていた。
 九代直清は伊勢神戸藩主石川総長の次男で寛文元年(1661)に加賀爪家の養子となり、延宝七年(1679)に掛塚藩二代藩主となった。しかし、天和元年(1681)に成瀬氏と領地境界の争いがもとで改易、所領没収、廃藩の処罰を受け、断絶となってしまった。
 唯一、直澄の異母弟信澄の家系が千石の旗本として幕末に至ったと伝えられている。

▲ 館跡の東側を流れる原野谷川。

▲ 館跡東側の堤防道路。横須賀方面に至る旧道であった。

▲ 館跡付近の街並みを西側から望見。
----備考---- 
訪問年月日 2011年3月6日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
 ↑ 「新ふるさと袋井24」他 

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