かもとりで
(かもとりで)

                   磐田市加茂           

加茂砦
▲ 砦跡と推定される加茂地区。道路のガードレールに沿って寺谷用水が流れている。遺構は消滅。

名君のかげに
         悲しみあり

 元亀三年(1572)、武田信玄率いる大軍が青崩峠を越えて遠江へ進攻した。徳川家康との激突が必至となった頃、天竜川東岸の交通路を押えるために家康の家臣平野三郎右衛門重定がここ加茂の地に進出して砦を築いた。
 青崩峠から南下した武田軍は二俣城を攻囲すると同時に現在の森町から磐田市にかけての諸城砦を次々と攻略していった。いうまでもなくここ加茂砦もその攻略の対象となった。加茂砦攻略の武田方の大将は川井助久朗直澄という部将で数百の兵を率いて押し寄せて来た。
 平野重定以下徳川方の兵は果敢に防戦、その勢いに押されて退却する川井勢を追撃するほどであった。
 攻略の大将として踏み止まっていた川井はひとり戦場に取残されてしまった。そこで川井は血路を開いて逃げるために砦の奥に入り、一人の娘を抱えて外へ飛び出したのであるが、そこで平野勢に包囲されてしまった。
 この川井を討ち取ろうと駆けつけた重定は意外な状況に足を止めた。妹のおこんが川井の楯にされていたのである。
「わたしに構わず突き刺すべし」
 重定はおこんの言葉に涙を呑んで槍を繰り出し、川井を討ち取った。
 戦国の世の悲しい逸話である。
 天正十六年(1588)、重定は寺谷村に取水口を設けて用水路を建設、周辺の農地開拓に貢献した。
 その後もこの用水路は拡張され、現在も寺谷用水と呼ばれて流れ続けている。
大円寺
▲ 平野重定の眠る大円寺。
重定公墓所
▲ 重定公の墓所。江戸期には加茂近郷二万三千石
  の代官として重政、重長、繁貞と続いた。
おこん供養塔
▲ 大円寺内にある重定の妹おこんの供養塔。
----備考----
画像の撮影時期*2005/02及び05