くらみじょう
(くらみじょう)

                   掛川市倉真           


▲ 寺中と呼ばれる丘の北側に建つ城址碑。道路から離れた
畑の畦にあるため、地元の人に案内を乞わなければならない。

戦乱の渦に
      消えた城

 明応六年(1497)十一月十三日が松浦兵庫頭の最期の日と伝えられている(掛川誌稿」)。「世楽院略縁起」には多数の敵に囲まれ城中に全員自刃すとある。残念ながら城主松浦兵庫頭についての事蹟も敵が誰であったのかも伝えられていない。
 明応の頃といえば隣国駿河の今川氏親とその重臣伊勢新九郎(後の北条早雲)の采配によって遠江進攻が繰り返されていた時期である。とくに原氏討伐による戦闘で中遠地方は戦乱と荒廃の巷と化していたが、その戦乱の連鎖のなかに松浦氏の倉真城もあったものと思われる。多数の敵とは伊勢新九郎の率いる今川軍を指しているのであろうか。
 戦後、自刃した数百の城兵の遺体は城址に埋葬された。しかし、その霊を祀る者もなく、放置されていたのであろう。その後、村に災いが起きるようになったという。その訴えを聞いた掛川城主松平越中守定綱(元和五年(1619)から四年間在城)は真砂(城址から倉真川の上流約3`)にあった清楽寺を倉真城址に移して慰霊したのであった。この時に寺号を世楽院としたという。
 この世楽院は安永元年(1772)の類火により全焼しており、その後に北西の地に再建されたのが現在の世楽院なのである。元和五年に建立された地は城址碑の建つあたりで寺中と呼ばれる丘の上にあったのであろう。現在の世楽院の寺域にも堀や土塁の跡が残っていることから両所ともに倉真城の城域内であるとされている。

▲ 安永元年(1772)の火災によって焼失後、同八年に
現在地に十八世石羊和尚によつて再建された。

▲ 世楽院の西側から南側にかけて空堀がめぐって
おり、その一部は水が溜まって池となっている。

----備考----
画像の撮影時期*2006/11