京見塚
(きょうみづか)

磐田市国府台


▲京見塚は古墳時代中期の円墳であるが、ここには
桓武帝の皇子とされる戒成王の悲話が伝えられている。
(写真・京見塚古墳)

戒成王子の伝説

県道413号一言の坂を上った南側の高台を国府台(こうのだい)という。この高台の西端に京見塚古墳があり、その周辺が京見塚公園として整備されている。京見塚古墳は古墳時代中期(五世紀中頃)の円墳であり、公園内とその周辺には13基の古墳時代後期(六世紀後半〜百年間位)の小規模な群集墳が確認されている。公園の北半部はブランコや鉄棒などが設置された児童公園であるが京見塚古墳のある南半部は復元古墳や石室、方形周溝墓、埴輪窯などが再現展示されている。

ところで、京見塚古墳の名の由来となったこの地に古くから伝わる伝説が残されている。古墳の東側に「戒成王子由来記」と題する碑文の刻まれた石碑が建っており、そこに伝説のあらましが記されている。

碑文は『戒成王子の物語は、古くからこの地に語り伝えられて来た美しくも哀しき物語である。』で始まっており、続いて『桓武天皇の王子戒成王が、』と記している。

桓武天皇は天応元年(781)から延暦二十五年(806)まで在位した天皇で、平安遷都を成したことでも知られる。戒成(かいじょう)王子はその桓武天皇の多くの皇子たちのひとりであったとされているが、実在の皇子ではないらしい。

『不治の病を得て或る年(延暦元年七月との説もある)わずかな随臣を供にして東国に都落ちされ、』と碑文は続く。不治の病とは左足が癩病に罹ってしまったものと伝えられている。未来を悲観した戒成王子はわずかな随臣と共に都を落ちて東国へと向かった。時期は延暦元年(782)七月とも言われている。

『旅のなかばで遠江国一言上野原(現高町地内)にとどまって館を建て、ここ十余年住み、この地で世を終わったと伝えられている。』東国へ向かった戒成王子の一行は上野原に至り、現在の国府台高町に館を建てて居住したという。そして十余年後、亡くなったとされる。

『悲運な王子は望郷の念たちがたく、塚に登り、はるか西の空をながめ、都をしのんだという。後世、この塚を「京見塚」と呼ぶようになったと伝えられる。』と記され、塚の由来となっている。そして『この戒成王子の心境をよまれた表記の和歌一首が伝承されている。「衣手のなみだに空もはれやらで都のかたは白雲ぞたつ」』と記され、戒成王子が塚の上に立って遠く西の彼方を眺めている姿が彷彿とされる。

『また王子は「人の子は何人と言えども、肉親合いつどい幸に過ごすが自然の姿。私は諸人の不幸を絶ち、諸人に幸をおくる権化となり、この世のある限り、人の世の続く限り、幸をおくり続けん」と申し残して、静かに瞑目されたと伝えられる。』で碑文は終わっている。

「諸人に幸を送る権化となる」と言い残して亡じた戒成王子の伝説はこれからも末永く伝え続けていかれるものなのだろう。


▲京見塚公園。

▲北側は児童公園となっている。

▲南側は群集墳が復元展示されている。

▲群集墳の説明板。

▲埴輪窯の推定復元実物大模型展示。

▲埴輪窯の説明板。

▲中央の高い塚が京見塚古墳で、右側の黄矢印が方形周溝墓である。

▲方形周溝墓の説明板。

▲横穴式石室の復元展示。

▲京見塚古墳。一部段々になっているが、これは耕作地となっていた頃の名残りとされる。

▲京見塚古墳の墳頂部。

▲京見塚古墳の東側には石碑が建てられている。

▲「戒成王子望郷の歌」の碑。「衣手のなみだに空もはれやらで都のかたは白雲ぞたつ」

▲この碑には「戒成王子 別名海上王子とも伝えられる」とある。

▲「戒成王子由来記」。

▲公園入口の「京見塚」の碑。

----備考---- 
訪問年月日 2026年1月4日
 主要参考資料 現地碑文など

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