■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2026

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。
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1月8日(木)晴/室城、鎧ヶ淵古戦場、岡山城、岡山陣屋、椿屋敷、藤波畷古戦場、東条城(西尾市)


 西尾市吉良町方面の史跡めぐりである。


 室城は永正年間(1504〜)に東条城へ至る街道の要所の城として東条吉良氏の家臣富永正安が築いたとされる。天文五年(1536)には正安の次代忠安が流浪中の松平広忠を室城に迎えている。忠安の子伴五郎忠元は永禄四年(1561)の四月に鎧ヶ淵の戦いで松平好景らの軍勢を討取って勝利している。


 城跡の主郭部分は墓地となっており、土塁の高まりが部分的に見られる。また、大きなくぼみが残されており井戸跡とされている。城跡の東側に神明神社が鎮座しているが、ここは倉屋敷と言われて城の一部をなしていた。


 富永伴五郎忠元が松平勢に勝利したという鎧ヶ淵の古戦場跡として県道42号の善明橋の南側に石標が建てられている。ここには江戸期に吉良上野介義央(よしひさ)が田畑を水害から守るために築いた堤防が残されており、「黄金堤」と呼ばれて史跡として整備されている。その駐車場の隅に古戦場跡の石標が建っている。


 岡山城は東条城の西北1.5kmほどの山稜端にある。室町初期には岡山氏塁代の居城であったようだが、戦国期になると室城の富永氏の管理下にあったという。城跡は自然地形で遺構はなさそうなので遠景撮影のみですませた。


 岡山城跡から岡山陣屋跡へ向う途中に華蔵寺がある。ここには今川氏によって吉良の地を追われた吉良義安以降の再興吉良氏歴代の墓塔が残されている。義安・義定・義弥・義冬・義央・義周である。他に義安夫人や吉良公家臣供養塔などが並んでいる。


 岡山陣屋跡は天正七年(1579)に家康と対面した義定が後に出仕して屋敷を構えた所とされる。義定の子義弥(よしみつ)は関ヶ原の戦いに父とともに参陣して後に三千石を拝領、高家となり、屋敷地を陣屋とした。次の義冬のときに千石が加増され、都合四千二百石を支配することになった。


 現在の陣屋跡には門と吉良義央公の騎馬像が建てられて小さな史跡として整備されている。


 岡山陣屋跡から南東約500mに椿屋敷跡という史跡がある。ここは今川氏によって駿河薮田の地に幽閉され死去した吉良義安の妻俊継尼が遺児義定を連れて吉良の地に戻り住んだ所とされている。ここで家康より食禄二百石をいただき、義定が出仕したことで吉良家再興となったのである。


 椿屋敷跡のすぐ西200mほどに藤波畷古戦場の石標が建てられている。鎧ヶ淵の戦いの後、態勢を整えた松平元康(家康)が東条城攻めに乗り出し、城を打って出た富永伴五郎らとの激戦の地である。


 石標の南400mに伴五郎地蔵と呼ばれる御堂がある。藤波畷の戦いで獅子奮迅の活躍を見せた富永伴五郎であったがついに力尽きてここで戦死してしまったという。東条城のすぐ近くである。城からこの戦いを見ていた城主の吉良義昭は伴五郎の討死を知ると、降伏して元康に降った。


 最期にその東条城へ寄った。16年ぶりの再訪である。当時は本丸虎口に櫓門や物見櫓が復元されていたが、老朽化のために取り壊されて現在はなくなっていた。

↑室城 土塁

↑鎧ヶ淵古戦場

↑岡山城

↑岡山陣屋

↑椿屋敷

↑藤波畷古戦場

↑東条城
1月4日(日)晴/兜塚京見塚(磐田市)

 さあ、新年だ。昨年は遠江を重点的に廻った。今年は三河を主に廻る予定である。とはいえ、本日は遠江の廻り残した兜塚と京見塚でスタートである。

 兜塚は現在磐田市のスポーツ関連の体育館やグランドなどが集中的に整備されている公園内にある古墳跡である。

 名前の由来は戦国期に徳川と武田がこの辺で戦った際に、徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝がこの塚の上で戦況を見聞し、兜を木に掛けたことからきているらしい。一言坂の戦いはこの直後のことで、本多平八郎は蜻蛉切の大槍を振るって大活躍、主君家康を武田勢の猛追から無事逃がしたことは有名なはなしである。

 この兜塚の近くに京見塚という古墳が残されている。

 平安遷都を行った桓武天皇の時代のはなしである。天皇の皇子の戒成王(かいじょうおう)は若くして不治の病にかかり、わずかな供と共に都を出て遠江に至り、ここに屋形を建てて住んだという。しかし、皇子は都が懐かしく、いつもこの墳丘の上に上って西の都の方を眺めていたという。皇子はここに住んで十数年でこの世を去ってしまった。いつしか人々はこの墳丘を「京見塚」と呼ぶようになったそうだ。

↑兜塚

↑京見塚