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■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2025 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。 |
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5月13日(火)晴/宮山城、相良氏館、相良城(牧之原市)、比木城(御前崎市) 今回も東遠への訪問である。 文明8年(1476)のことである。今川義忠との争いで東遠の雄、勝間田氏最期の戦いの地となったのが宮山城であるとされている。宮山城、城といっても城郭としての遺構は確認されていない。丘陵上に柵を結っただけの簡素なものであったのかもしれない。 この最期の戦いで果てた勝間田一族の五輪塔などの墓石が山麓の清浄寺に集められている。その数約10、残欠など合わせれば20はありそうである。誰々の墓かは今となっては分からない。この戦いで勝間田一族は各地に四散してしまった。 相良氏館は藤原周頼が天永3年(1112)に相良の荘司として土着、相良氏を名乗り、居館地としたことにはじまる。その後、五代80余年間ここに栄えた。鎌倉幕府の時代になると相良氏は九州人吉の地頭として移り、そこで勢力を扶植して生き抜き、明治に至っている。 その相良氏の館跡が遺構もないままに標柱一本が立つのみというのも寂しいものである。 相良まで来たついでに相良城跡を訪ねた。19年ぶりの再訪である。 本丸跡に建つ史料館前には大河ドラマ「べらぼう」の幟旗がひらめいていた。ドラマには田沼意次が登場しているからである。そして相良城はこの田沼意次の築いた城なのである。資料館入口には「相良城」の石碑が建っているが、近年その横に田沼意次侯の像が建てられていた。 比木郷には土地の有力者比木氏の存在があるが、それと比木城との関連は立証されていない。この城も戦国期の武徳抗争における武田方の改修を受けたものとみられている。現状は放棄された茶畑となっていて踏み入る事はおろか視界もままならぬ状態となっている。 今年に入って訪れた城跡のうち湯日城、穴ヶ谷城、富田城そして比木城が放棄茶畑となっていて踏み込めず見ることもできずで残念な思いしきりである。 |
![]() ↑宮山城 勝間田氏の墓 ![]() ↑相良氏館 ![]() ↑相良城 城址碑と田沼意次像 ![]() ↑比木城 |
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4月29日(火)晴/富田城、堀田城(菊川市)、仁藤山砦、遠江塚(掛川市) ゴールデンウィーク、とは言ってもリタイア組の老人には関係ないか。とにかく快晴であれば史跡訪問のチャンスなのである。ここのところ遠江東部への訪問が続いている。本日もその流れである。 富田城は明確な城史は不詳であるが、城郭地名が周辺の字名として残ることから在地支配層の存在が推測され、その象徴としての城が造成されていたものと見られている。城の南西地域を「吉沢」と言い、永禄12年(1569)に徳川家康が地侍の大村弥十郎に安堵している。天正二年(1574)、高天神城が武田勝頼に落とされると、弥十郎は武田氏に従属した。ただ、弥十郎と富田城の関係を記すものはない。 城跡の主郭はかつて茶畑だったらしいが現在は耕作放棄されて藪と化している。弘法堂のある二の曲輪跡だけが広場となっているに過ぎない。耕作放棄された茶畑だけは踏み入ることは不可能であり、地形の確認なども困難である。 堀田城は山麓の正法寺開基である堀田正法が住したという。ここ西方地域は古くは鎌倉期に西方遠江守景能が領したと言われ、戦国期には今川家臣興津氏が、また永禄12年(1569)には家康から大村氏に同地域が安堵されている。城自体の歴史は不詳であるが、先の富田城と共に家康の諏訪原城攻めの際に繋ぎの城として利用されたものと見られている。 城跡へは正法寺墓苑の裏に大手口の案内板があり、そこから城山へ登る。かなりの急こう配である。登りきると太鼓の段と呼ばれるところで堀田神社が建っている。そこから本城曲輪まで進む。途中、堀切が幾つか見られた。 仁藤山砦は笠町砦とも呼ばれる。永禄12年(1569)の家康の掛川城攻めに際して築かれた砦群のひとつである。奥平美作守百五十騎、菅沼新九郎正貞三十騎が詰めたとされる。 現状は主郭に神明宮、その北側ニ郭に三社を祀る拝殿、道路をはさんだ北側高台が三郭で不動院とそれそれの境内となっている。 遠江塚は掛川城主松平隠岐守定勝の長子遠江守定吉18歳を供養するために築かれた塚で、五輪塔が据えられている。死因は自害である。自害した原因は浜名湖の今切れ口で家康の船に同乗していた定吉が一羽の鳥を射落としたことにある。定吉は見事であると褒められると思ったが、家康は粗忽な行為であると不機嫌になったという。それを聞いた定吉は恥じて自害したというのである。 現在も住宅街のなかにあってもここだけは戦国以来の塚と五輪塔がしっかりと守られて残されている。 |
![]() ↑富田城 ![]() ↑堀田城 ![]() ↑仁藤山砦 ![]() ↑遠江塚 |
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4月19日(土)晴/中村屋敷(浜松市) 中央区雄踏町の中村屋敷。20年ぶりの再訪である。 中村屋敷は天正二年(1574)に徳川家康の側室お万の方が当家屋敷において家康次男於義丸(結城秀康)を出産したことで知られる。 平成の解体修理の際に建築当初(貞享五年/1688)の姿に復元された。国指定の建造物である。長屋門は市指定建造物、於義丸の胞衣塚は市指定史跡となっている。 |
![]() ↑中村屋敷 |
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4月17日(木)晴/穴ヶ谷城、勝間田城(牧之原市) 今日は気温が五月中旬並みに上昇するらしい。真夏の猛暑の炎天下における山城踏査ほど身体にこたえるものはない。行くなら今のうちだ。 まずは穴ヶ谷城の登城である。先達の訪城者による情報では山麓の小仁田薬師堂前の駐車場に車を置き、茶畑の農道を歩いて登城するとあり、私もそれに倣った。たしかに農道の周辺は茶畑なのだが、どこも茶の木が2m以上の高さになっており、耕作放棄された状態になっている。霜除けのファンが空しく空回りしていた。 それでも、道は確保されているので城址までは15分程で到着できた。東の曲輪の前面には堀切や土塁の遺構が確認できるが、曲輪そのものは放棄された茶畑跡であり、踏み入ることは不可能な状態である。城址全体がこんな様子であり、整備されないのかと残念でならない。 穴ヶ谷城は勝間田城を本拠とする勝間田氏の支城のひとつとされ、勝間田十郎政次の居城であったとされる。文明八年(1476)に今川義忠によって勝間田氏は滅ぼされ、それに伴って穴ヶ谷城も廃城となったという。 勝間田城は山麓に専用の駐車場が整備されている。ここから城址まで15分ほど坂道を登らなければならない。穴ヶ谷城でかなり体力を消耗しているので、ここでの坂道はかなりこたえた。それでも城址碑を見付けると自然と活力が湧いてくるから不思議だ。見上げると三の曲輪の土塁が迎えてくれている。 実はこの城は2006年以来の再訪になる。当時は城址碑のある辺りは山林となっていたのであるが、近年に伐採されて曲輪の切岸や法面を直に目にすることができた。二の曲輪を経て本城曲輪まで進む。城全体が見渡せるように整備されており、すばらしい状態になっていた。 |
![]() ↑穴ヶ谷城 ![]() 勝間田城 城址碑と三の曲輪入口 ![]() ↑勝間田城 本城曲輪 |
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4月12日(土)晴/内山真龍屋敷(浜松市) 内山真龍は国学者賀茂真淵の弟子となり、「遠江国風土記伝」を著したことで知られる江戸時代の人である。天竜区大谷の生家屋敷跡に内山真龍の業績を紹介する史料館が建てられている。代々村の名主であった内山家の屋敷は残っていないが長屋門が現存している。 「遠江国風土記伝」は遠江国内の名勝・旧跡などを実地踏査して調べ上げた名著で、現在でもその内容は貴重な資料として参考にされることが多い。現代を生きる私たちには正確な地図があり、車でどこへでも短時間で移動でき、現地の様子もカメラに収めることができるが、真龍の生きた当時は交通手段は徒歩のみ、筆一本で見聞きしたことを記してまわったのである。風土記伝の完成まで10年の歳月がかかっている。ただただ、敬服あるのみである。 |
![]() ↑内山家長屋門 |
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4月5日(土)晴/堀川城(浜松市) 堀川城は20年ぶりの再訪である。この城には土豪や住民がたて籠ったが、永禄12年(1569)に徳川勢に攻められて落城、城兵や住民の多くが斬り殺された。近年になって堀川城の城将のひとりであった尾藤守善の墓が油田地区にあることがわかり、再訪ついでにこの墓に寄ってみようと出掛けた。 場所は細江町気賀の都田川南岸の高台にあるが、史蹟として整備されているわけではないので、まず駐車をどうするかを考えなければならない。地図(グーグルマップ)で確認するとかなり細い道となっており、途中からは車を降りての徒歩であることがわかった。ともかく行ける所まで車で行って、路駐しかないと覚悟を決めて出掛けた。 油田地区コミュニティー防災センターの前の坂道を登って行くと墓地があり、墓参者用と思われる車2〜3台分ほどの広場があったのでそこへ駐車した。するとどこからか年配の方が出てきて「そこはうちの土地だから停めてはだめだ」と怒られてしまった。長年、史跡巡りを続けているといいことばかりではない。こうしたちょっとしたトラブルに見舞われることもある。 皆さんも気を付けてくださいね。知らないうちに私有地へ進入していたなんてことのないように。 |
![]() ↑堀川城跡 ![]() ↑尾藤守善の墓の案内板 |
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3月23日(日)晴/大鐘屋敷(牧之原市)、諏訪原城(島田市) 四月下旬並みの暖かい一日であった。孫たちを含め七人、ワンボックスで出掛けた。東名牧之原ICから南へ向い相良町へ出て、海沿いに東へ行くと大鐘屋敷である。六月頃にはあじさいが咲き誇り、観光客で賑わうらしい。 戦国期、柴田勝豊の家臣大鐘籐八郎貞綱は越前丸岡城の城代家老を務めていた。天正十年(1582)の賤ヶ岳の戦いでは勝豊とともに近江長浜城を守った。その後、山内一豊に仕えて掛川へ移り、貞綱は相良居住を命ぜられてやがて帰農した。江戸中期には大庄屋となり幕末に至った。 現在では長屋門や母屋が国指定の文化財になっている。休憩所ではここでしか販売されていないという「百葉茶」がいただける。腹の贅肉が取れるとのことで我が家の女たちが数袋買い込んでいた。 大鐘屋敷を出て一路北上、諏訪原城へ向った。 諏訪原城は天正元年(1573)に武田勝頼の指示によって馬場美濃守信春らによって築かれた城である。三日月堀や丸馬出が残されており、武田流築城術の典型であることなどから国指定史跡となっている。 諏訪原城は実は17年ぶりの再訪である。当時は堀やその周辺まで樹木に覆われていたが、その後かなり整備が進んだようで遺構の見学がしやすくなっていた。 |
![]() ↑大鐘氏屋敷 長屋門 ![]() ↑諏訪原城 |
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3月20日(木)晴/江馬加賀守墓所、奥平信昌屋敷(浜松市) 徳川家康が永禄十一年(1568)の暮れに遠江へ進出して引馬城を攻めた。この時に引馬城主飯尾豊前守は今川氏真に謀殺されて居らず、妻のお田鶴の方が城主となっていた。そしてこの女城主を補佐していたのが江馬加賀守と江馬安芸守の重臣であった。ところがこの二人、仲違いして安芸守は武田方に、加賀守は徳川方に付くべしと譲らなかったという。安芸守は加賀守を討取り、さらに加賀守の家来が安芸守を討取り、城内はガタガタとなり、戦どころではなくなってしまった。 しかし、健気な女城主は侍女らを率いて打って出、壮絶な討死を果たして戦は終わった。家康は彼女の死を悼み、塚を築いて弔ったという。 徳川方であった江馬加賀守の遺体を葬った所が浜松市上島の赤池山光福院(現・白華寺)の裏の高台にあり、墓碑が建っている。墓碑のそばに墳墓の印として植えられたという松が植えられており、「江馬殿松」と呼ばれている。 奥平信昌屋敷は浜松城の南西500mほどの所にある。現在は浜松秋葉神社の境内に石柱が建つのみである。浜松市の立てた標柱には徳川家康家臣山家三方衆屋敷推定地となっている。いうまでもなく奥平信昌はこの山家三方衆のひとりである。信昌は天正三年(1575)の長篠合戦で長篠城を武田勢の攻撃から守り通したことで知られる。 |
![]() ↑江馬加賀守墓所 ![]() ↑奥平信昌屋敷 |
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3月9日(日)晴/火剣山砦(菊川市)、横岡城(島田市) 今日は覚悟を決めての登山行である。少し大げさだが持病持ちの私には体力的にも不安があり、勇気ある決断を要するのである。目的の山は菊川市の火剣山標高282m、登山道入り口からの比高約100m、通常15分ほどの登山である。健康体の人であればたいした問題もない低山登山である。 しかしながらなぜに苦労してまで火剣山に登るのか。そこが徳川家康の陣取った砦跡だからである。武田勝頼の築いた諏訪原城の攻略に乗り出した家康がここに本陣を構え、二月ほどの城攻めで諏訪原城を攻め落としたのである。登山の理由はそれだけであるが、歴史好きにとっては足を運ばざるを得ないのである。 下山後、島田市の横岡城へ車を向けた。横岡城は土豪鶴見氏の城跡である。 鶴見因幡守のとき、倉真の松葉城を攻めて河井蔵人を滅ぼしたことが知られている。その戦いの後、鶴見因幡守は今川氏に攻められて落城、討死した。いったい何があったのか、戦国の一情景に興味がそそられる城跡である。 |
![]() ↑火剣山砦 遠望(中央の山頂) ![]() ↑横岡城 井戸跡 |
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2月20日(木)晴/鈴木氏屋敷、中屋遺跡、笹岡古城(浜松市) 今季二度目の寒波。日本海側では連日の積雪に悩まされているが、太平洋側の特に静岡県では快晴の日が続いている。 鈴木氏屋敷は遠州鉄道西ヶ崎駅の近くにあり、万斛庄屋公園となって改築されている。 この鈴木氏は室町時代から当地の指導的立場にあったと言われ、浜松城に入った徳川家康は鈴木権右衛門を万斛(まんごく)村地域の庄屋に取り立てた。庄屋の中でも殿様に拝謁を許された格式の高い独礼庄屋であった。また、こんな話が伝えられている。家康は側室の阿茶局を鈴木家に預けていたらしい。 天竜浜名湖鉄道の岩水寺駅の北、新東名の高架下に中屋遺跡はある。新東名の建設工事に際して発掘された遺跡で、鎌倉時代の方形居館跡とされた。鎌倉期の木製の鞍が発見されたことで知られる。 かなり大規模な居館跡であったようだが、誰が主であったかは分からない。ただ、この地域の旧名が赤佐であることから井伊氏一族の赤佐氏の本貫地でもあることから赤佐氏の名があがっている。 笹岡古城は天竜区役所の場所が城址であるが、遺構は役所の北側にそびえる山上にわずかに残る程度である。実はこの城跡は再訪なのであるが山上まで登っていなかったので本日登ってみることにした次第である。 |
![]() ↑鈴木氏屋敷 ![]() ↑中屋遺跡 ![]() ↑笹岡古城 |
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2月8日(土)晴時々粉雪/賀茂真淵遺跡(浜松市) 今季最強寒波と天気予報ではしきりに伝えている。晴れてはいるものの雲の流れは速く、粉雪が舞う一日であった。 江戸中期、遠州(遠江国)を代表する国学者として賀茂真淵の存在を忘れてはならない。この当時、学問といえば孔子の説く儒学が中心であったが、こうした漢学に対して日本古来の万葉集や古事記を研究することによって日本固有の姿、文化を明らかにしようとしたのが国学である。 賀茂真淵は万葉集の研究に取り組み、その教えは本居宣長の古事記の研究へと受け継がれて行くことになる。 |
![]() ↑賀茂真淵翁誕生地の顕彰碑 |
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1月23日(木)晴/湯日城、岡田城(島田市)、大熊備前守屋敷、住吉陣屋(吉田町) 今日は遠江国の東端にまで足を延ばした。遠江国と駿河国の国境は大井川である。 富士山静岡空港の滑走路の北側に湯日城がある。湯日城は東遠の豪族勝間田氏が支城として築いたとされている。 後に中山氏が城主となり、城下に養勝寺を開基したという。永禄11年(1568)、中山是非之助は遠州入りした徳川家康に臣従、城を出て高天神城主小笠原氏の組下に置かれ活躍した。その後、城は武田氏によって利用されたとされる。 現状は茶畑の耕作放棄地となって藪化しており、踏査は困難である。 岡田城は島田市内湯日川沿いにある。家康十男の徳川頼宣が駿府藩主のとき、家臣水野正重が代官所として構えたものである。 現在城跡には稲荷神社が鎮座しており、周辺よりわずかに高台となっている。西側にはわずかに堀跡らしき窪みが見られる。 榛原郡吉田町の大熊氏屋敷は小山城の南西約600mにある。元亀二年(1571)、武田信玄は小山城を普請して大熊備前守長秀を城主とした。その大熊氏が屋敷地としたのが当所である。 現況は茶畑となっており、標柱と説明板が隅に立っている。 住吉陣屋は江戸後期の伊勢長島藩主増山河内守の陣屋で、当地の庄屋久保田氏を代官とした。 現在は吉田町中央公民館の敷地となって陣屋跡は消滅、史跡標柱が立つのみである。 |
![]() ↑湯日城 ![]() ↑岡田城 ![]() ↑大熊氏屋敷 ![]() ↑住吉陣屋 |
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1月9日(木)晴/刑部砦、刑部城、気賀陣屋(浜松市) 寒波到来。とはいうものの、ここ太平洋岸の浜松は雪に覆われることはまずない。快晴の日が多く、乾燥した日が続くのがこの地方の冬なのである。 刑部砦は三方原台地の北西端の台地上にある。県指定史跡の陣座ヶ谷古墳の東側である。県道261号沿いに「史蹟」と彫られた石碑が建てられている。 これだけでは何の史跡なのか分からないが、裏に刻まれた碑文にその由来が記されている。内容は武田信玄が三方原合戦で徳川家康を大いに破り、この付近に15日間陣してから三河に向ったことなどである。 刑部城、気賀陣屋ともに再訪である。 刑部城は徳川家康の遠州入りの際に地元の郷士らが立て籠って抵抗したが、あえなく落城してしまった城である。 城跡の二の曲輪には神社が鎮座しており、主曲輪の方は相変わらずの竹藪状態で踏み入ることは出来そうもない。 気賀陣屋は「五近藤」のひとり近藤用可5000石を初代とする。陣屋としての遺構は宅地化によって失われ、御殿前に生えていた「椎」の古木のみが現在も同じ場所にある。 樹勢は盛んなようで枯れることなく末永く、歴史を伝えてもらいたいものである。 |
![]() ↑刑部砦 ![]() ↑刑部城 ![]() ↑気賀陣屋 |