■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2024 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。 |
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4月11日(木)晴/川上城、棚草城、堤城、高田大屋敷(菊川市) 川上城に関する城史については不明である。城跡は菊川市川上の川上八幡神社の裏山とその北側にかけての丘陵地とされている。 高天神城をめぐる武田氏と徳川氏の争乱期、武田信玄も武田勝頼も駿河から遠江へ軍を進めるとまず塩買坂に陣取っている。川上城はこの塩買坂の陣場から西へ1.5kmほどの所にある。本軍の先駆けである先鋒部隊の駐屯地になった可能性も考えられよう。 棚草城のある丘陵の西端に雲林寺の跡があり、その近くに「今川さま」と呼ばれる小祠が祀られている。なかには今川氏真と棚草地域を安堵された朝比奈孫十郎の位牌が祀られている。 氏真がこの地域の農業振興のために孫十郎に用水路掘削の許可状を出したことで農民から両人が祀られることになったのである。暗愚と評されがちな今川氏真であるが、そうとばかりとも言えない名君であったのかも知れない。 堤城のある地域は下平川と呼ばれ、永正十年(1513)に今川氏親が松井宗能に当地を与えている。この翌年、松井氏は氏親の命により二俣城へ転向して堤城を去った。 堤城のある下平川の地は依然として二俣城主となった松井氏の所領として続いた。 元亀、天正の頃になると二俣城を追われた松井氏は下平川に逼塞したようで、東遠州が武田氏の領域に組み込まれると松井氏も武田氏に従った。 高田大屋敷の遺跡は鎌倉期の地頭御家人内田氏の屋敷跡である。内田荘における内田氏の活動時期は平安末期から南北朝期前半までとされている。基本的には土塁に囲まれた方形居館である。 中世初期の地頭屋敷を伝える全国的にも類稀なる歴史文化遺産ということで横地氏城館遺跡とともに菊川城館遺跡群として国の史跡に指定された。 |
↑川上城 ↑棚草城 ↑堤城 ↑高田大屋敷 |
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3月10日(日)晴/渡辺金太夫屋敷、渥美源五郎屋敷、岩井寺砦(掛川市) 渡辺氏屋敷は渡辺金太夫照の屋敷跡で、高天神城の東側間近にある。高天神城主小笠原氏の麾下高天神衆のひとりで「姉川の七本槍」に数えられた猛者である。 天正2年(1574)、武田勝頼の猛攻に耐えられず開城の後は武田氏仕えた。天正10年(1582)、武田氏の滅亡時、渡辺金太夫は信州高遠城で戦死した。現状は溜池(渡辺池)となっている。 渥美氏屋敷は渥美源五郎勝吉の屋敷跡で、高天神城の至近の位置にある。天正2年(1574)の高天神城開城の後は徳川方へ帰参して大須賀氏に従った。 徳川家康の関東移封に際しては大須賀氏とともに上総へ移ったが、晩年は当地に隠棲した。 高天神城の北約4.5kmの山上に真言宗の岩井寺がある。本堂の周囲が曲輪状の高台に囲まれており、堀切と見られる切通もあることから砦跡とされるが、詳細は不明とされる。 高天神城をめぐる武田氏と徳川氏の抗争期に武田氏による兵火により岩井寺は焼失したという。高天神城の支城群のひとつとみられることから、徳川方のとりでであったものと見られる。 |
↑渡辺金太夫屋敷 ↑渥美源五郎屋敷 ↑岩井寺砦 |