渡辺金太夫屋敷
(わたなべきんだゆうやしき)

      掛川市下土方     


▲渡辺金太夫屋敷は高天神衆のひとり渡辺金太夫照の屋敷跡である。高天
神城の落城後は武田氏に仕え、その滅亡時には高遠城において討死した。
(写真・説明板の立つ屋敷跡)

天下第一の槍

高天神城の東約750mに渡辺池と名付けられた溜池がある。その辺りが渡辺氏の屋敷跡らしいのだが、溜池造成のためか位置の特定は困難となっている。

屋敷の主は渡辺金太夫照である。今川義元は駿河、遠江を支配下に置いた時、高天神城を小笠原氏に与えた。この時、高天神城周辺の土豪らは小笠原氏の麾下に加えられた。渡辺金太夫もその一人であったようだ。永禄三年(1560)に今川義元が桶狭間に斃れた後、高天神城主小笠原長忠は乱世に備えて城の修築に取り掛かった。

永禄十一年(1568)、小笠原長忠は三河から遠江に入った徳川家康に従った。家康は高天神城周辺の土豪、地侍は小笠原長忠の麾下に入り、有事には高天神城に詰めることを命じた。彼らを高天神衆と呼んだ。当然、渡辺金太夫も小笠原長忠の麾下に従った。

元亀元年(1570)、織田信長の要請で徳川家康は約五千の兵を率いて近江姉川へ参陣した。姉川の合戦である。徳川勢は姉川対岸に布陣する朝倉勢と激戦となった。この徳川勢のなかに小笠原長忠以下の高天神衆がいた。とくに渡辺金太夫の旗指物は誰よりも目立っていた。朱の唐傘に金色の短冊を周りにぶら下げている。その金太夫が馬上颯爽と長槍を繰り出して朝倉勢へ突進しているのである。その様子は織田信長の目にも見えていた。合戦は織田・徳川勢の勝利で終わった。信長は渡辺金太夫を呼び「天下第一の槍、見事である」と感状と貞宗の脇差を与えた。同様に渡辺金太夫とともに突進していた高天神衆六人(門奈左近右衛門、伊達与兵衛、伏木久内、中山是非之助、吉原又兵衛、林平六)にも感状を与え、「姉川七本槍」と呼ばれた。

天正二年(1574)、武田勝頼が大軍をもって高天神城へ押し寄せてきた。渡辺金太夫は高天神城の北口搦手門の大将となり、二百五十騎で守備に就いた。城主小笠原長忠は徳川家康へ救援の要請を出したがいくら待っても家康は動かなかった。家康もまた織田信長の援軍を待っていたのである。五月から始まった武田勢の城攻めは六月に入るといよいよ激しくなり、西の丸が陥落した。ここで武田勝頼は小笠原長忠に降伏開城を勧告した。長忠は籠城五十七日、兵糧は尽き果て、徳川の援軍は来ず、城兵の命を救うために開城を決した。

開城後、城兵らは城を立ち退くこととなり、小笠原長忠と共に武田方に付く者と徳川方に付く者とに分かれた。武田に付いた者を東退組、徳川に付いた者を西退組と称された。この時、渡辺金太夫は長忠と共に武田の家臣となった。

天正十年(1582)三月、甲州征伐の織田の大軍が伊那路を進撃して高遠城に迫った。渡辺金太夫はこの高遠城で浪人衆の組頭として城南端の法堂院曲輪の守備に就いていた。城主は仁科五郎盛信である。信玄の五男、勝頼の異母弟にあたる。

高遠城内では怒涛の勢いで迫り来る織田勢を見て城を抜け出す者が相次いだ。副将格の小山田備中守昌成は他国出身の渡辺金太夫も逃亡するのではないかと疑った。小山田備中はわざと渡辺金太夫を呼び「武田の命運も尽きようとしている。武田重恩の譜代ではないから城を退いたとて誰も臆病者などと言う者はおらぬぞ。われらと共に命を捨てるにはおよぶまい」と本心を探った。渡辺金太夫は「高天神城退去以来八年、妻子共々今あるは武田家の御厚恩のおかげでござる。仁科殿が城を枕に討死とのお覚悟であるなら、某は何処へも退きはしませぬ。決して二心などはありませぬ」と言い放った。小山田備中は疑ったことを渡辺金太夫に詫びて仁科盛信のもとへ伴った。小山田備中の報告を聞いた盛信は渡辺金太夫の忠心に感激して伝家の脇差を与えて労った。

織田勢の総攻撃の日、渡辺金太夫は姉川合戦の時と同じ朱の唐傘に金の短冊がきらめく大指物を立て、一丈三尺の大槍を振り回して織田方滝川一益勢五千を相手に戦った。「今日の働き敵味方随一なり」と渡辺金太夫の戦う様を人々は激賞した。しかし多勢に無勢、遂に力尽きて十方から槍に突かれ、岩田市右衛門に首を渡してしまった。この日、城主仁科盛信、小山田備中守以下城兵のことごとくが討死して果て、高遠城は落城した。

現在、渡辺金太夫の屋敷跡を訪ねても説明板が立つのみで何もない。ただ、眼前に高天神の山城が迫って見える。一朝有事に際し、背の指物である朱の唐傘に金の短冊をひらめかせて城へ駆けて行く男の後ろ姿が一瞬垣間見えたような気がした。


▲正面の山が高天神城、道路左の土手が屋敷跡。

▲屋敷跡に立つ説明板。



----備考---- 
訪問年月日 2024年3月10日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
「高遠城の戦い」他

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