堤城
(つつみじょう)

菊川市下平川


▲堤城は後に二俣城主となった松井氏の城跡であるが、
築城時期や城としての歴史に関しては明確ではない。
(写真・堤城の登城口)

遠江松井氏の盛衰

菊川と牛渕川が500mほどの間隔で南北に並行して流れる地域がある。牛渕川の西岸を上平川、東岸を下平川という。堤城跡は牛渕川に架かる城下橋の下平川側にある。

堤城の築城時期は明確ではないが、永正十年(1513)に今川氏親は松井山城守宗能に下平河の地を与えており、当地における松井氏の居住がはじまった。松井氏の出身は山城国で南北朝期に足利尊氏の重臣今川範国に従って戦功を積み、建武五年(1338)に駿河国葉梨荘(藤枝市)の地頭代となって定住したのにはじまる。

享禄元年(1528)、今川氏輝が宗能の子八郎貞宗に相続を認めており、下平川も相続されたと考えられている。

一方で貞宗の嫡男信薫(のぶしげ)が永正十一年(1514)に今川氏親によって遠江二俣城主を命ぜられている。この信薫は享禄元年(1528)に病没した。下平川の所領は松井氏が二俣城主となった後も維持されたようだ。

信薫の死後、松井家は弟の宗信が継承した。宗信は今川義元の部将として各戦陣で活躍したことで知られる。永禄二年(1559)に今川氏真は宗信に父貞宗の代官職の相続を認めている。ここ下平川も受け継がれたものと見られている。しかし、この翌年の永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いで今川義元とともに宗信も戦死してしまう。

十二月、今川氏真は宗信の嫡子宗恒に平河(平川)などの所領を安堵した。二俣城の方は信薫の子宗親が継いだようだが、永禄六年(1563)に謀反を疑われて駿府にて氏真によって謀殺された。

永禄十一年(1568)、二俣城の松井氏(松井和泉守、松井八郎三郎)は徳川に降ったが宗恒の行動は不明である。この時期、遠江国内は家康の支配を広げるために各地が家康家臣に宛がわれた。下平河の地は都築秀綱に安堵されたという。

その後、武田信玄による遠江攻略がはじまり、遠江東部は信玄の支配下に置かれた。ここで宗恒が登場する。元亀三年(1572)、信玄は松井山城守宗恒に「敷地(磐田市)百五拾貫」「上平河之内同下平河散田地共六拾貫」を安堵した。宗恒は武田方に属したのである。信玄亡き後の天正元年(1573)、武田勝頼が宗恒に同様の所領を安堵した。

武田氏と徳川氏の遠江における抗争は天正九年(1581)の高天神城落城まで続き、その翌年に武田勝頼は滅亡した。松井宗恒らは最後まで武田氏に従い遠江を退去して没落した。

松井氏の盛衰と堤城の関わりは不明であるが、城跡の南東の墓地が松井屋敷跡と伝えられており、この城が松井氏を支えていたことは間違いないだろう。


▲城跡を示す標柱。

▲登り口の案内と説明板。

▲城山の中腹に松井氏の墓がある。

▲「堤城主・天龍二俣城主 松井左衛門尉信薫」と墓誌にある。

▲二の曲輪と天満天神宮。

▲二の曲輪から見上げる本城曲輪。

▲山頂部の本城曲輪。津島神社と八幡神社が祀られている。

▲城跡から東側を見る。正面の山には千畳敷と呼ばれる曲輪が存在する。その手前は墓地であるが、ここが松井氏屋敷跡とされている。

----備考---- 
訪問年月日 2024年4月11日 
 主要参考資料 「静岡県の城跡」
現地説明板 他

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