波城
(はじょう)

西尾市吉良町小山田大山


▲波城は三河松井氏の城で松井忠次の活躍により、譜代大名に取り立てられた。
(写真・小山田の丘陵、矢印の辺りが城跡)

主家を支え続けた生涯

西尾市吉良町の半島状に突き出た東部山稜地の一画に波城がある。かつてはこの半島状の山稜際までが海であったとされる。

最初にここへ城を築いたのは松井忠勝で永享十二年(1440)のことといわれている。松井氏は源為義の後裔とされ、為義の子維義が備中国松井荘に住したのを始まりとしている。その後、足利氏に従い、永享十一年(1439)に鎌倉より三河に移り、小山田の地を本拠とした。忠勝の曽孫にあたるのが金四郎忠直である。忠直は東条吉良氏(東条城)に属していたとされる。そして大永元年(1521)に子の左近尉忠次が誕生している。三河における松井氏の活躍はこの忠次の働きによるものが大きい。

松井左近尉忠次が歴史に登場するのは天文二十年(1551)のことで、今川義元から松平甚太郎忠茂(青野松平後に東条松平)に付属することが命ぜられている。当時の三河は今川義元の版図内にあり国内の松平氏をはじめとする諸士は今川氏の支配下にあった。

弘治二年(1556)、松平忠茂とその寄騎である松井忠次は織田方に付いた奥平勢の日近城を攻めた。この戦いで松平忠茂が討死したため忠次は殿軍となって松平勢の危機を回避したとされる。合戦後、今川義元は忠茂の嫡男亀千代(松平家忠)一歳に松平家を相続させ、松井忠次を補佐役とした。

桶狭間合戦で今川義元が討死した。松平元康(徳川家康)は岡崎城に自立して三河平定をはじめた。永禄四年(1561)、松井忠次は亀千代共々今川を見限り、松平元康の麾下に参じた。

この年、忠次らは東条城の吉良義昭を攻めて降伏させた。永禄六年(1563)、三河一向一揆が起こり、吉良義昭が再び東条城に反旗を翻したため再び東条城を囲み、翌七年(1564)に攻略した。この戦功により亀千代に東条城が与えられ、忠次は五百貫文加増されて三千五百貫文を知行した。

その後亀千代は元服して松平甚太郎家忠(東条松平)と名乗り、松井忠次は家忠を補佐して姉川、三方原長篠と各戦場を駆け続けた。天正三年(1575)八月、徳川家康は武田方の遠江諏訪原城を攻め取った。家康は松井忠次と牧野成定を諏訪原城(牧野原城)の城番とし、忠次には松平姓を与えて松平周防守康親と名乗らせたという。

天正九年(1581)、康親(忠次)の仕えた家忠が病没した。家康は四男於次丸(忠吉)二歳に東条松平家を継がせ、康親を後見とした。

天正十年(1582)、松平忠吉が沼津城四万石に封ぜられる。当然、康親が幼い忠吉を支えて後北条氏と対峙した。康親は富士郡と駿東郡の郡代をつとめたという。翌十一年(1583)、沼津城にて没、六十三歳であった。まさに主家を支え続けた生涯であったといえる。嫡男康重が継いで忠吉と沼津城を天正十八年(1590)まで守り続けた。

家康の関東入部に従い、武蔵騎西二万石を拝領して譜代大名となり、忠吉の後見から離れた。慶長六年(1601)には常陸笠間城三万石に移封、慶長十三年(1608)丹波篠山城五万石の藩主となる。元和五年(1619)、岸和田に転封となる。その後代々続き、封地も転々として最終的には川越藩(川越城)八万四千石で明治に至った。明治後は松平姓から松井姓に戻したとされる。

現在、城跡は畑地、竹藪となり、「愛知県中世城館跡調査報告」には「遺構は判然としない」とある。また、城跡の南東にある正龍寺には松井氏歴代の墓所が残されている。


▲城址南東の正龍寺。松井氏の墓所がある。

▲松井氏の墓所。

▲墓所前に立つ説明板。

▲松井忠次より前の松井氏の墓塔。

----備考---- 
訪問年月日 2025年12月9日
 主要参考資料 「愛知県中世城館跡報告」他

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