刑部城
(おさかべじょう)

                   浜松市北区細江町中川         


▲ 現在、県道261号線(姫街道)が城址を寸断している。

金襴の蛇、
     伝説の城

 永禄十一年(1568)末、井伊谷三人衆(菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時)の合力を得た徳川家康は遠江への進出を開始した。

 陣座峠から遠江入りした徳川勢は奥山を経由して井伊氏の故地井伊谷城を攻略、今川勢を駆逐しながら引馬城を目指した。

 刑部城の攻防はその過程で起きた。

 城には今川の臣である庵原庄太郎忠良、長谷川次郎右衛門秀匡らと地元の内山党がたて籠り、三河からの侵入者に備えていた。

 対する徳川勢は三河野田の菅沼新八郎定盈が手勢を率いて攻めかかった。
「このような小城、わが一手にて十分でござる」
 といったところであろう。

 遠江入りして勢いにのる菅沼勢の攻撃は熾烈をきわめ、刑部城はあっけなく落城。定盈の叔父、菅沼又左衛門が城に留まって気賀方面の押さえに目を光らせることになった。

 それにしても、落城に悲話はつきものである。

 ここ刑部城も例外ではない。

 落城に際し、城主の美しい姫が敵手にかかって恥をさらすことを厭い、城のそばの池に身を沈めた。そして金襴の蛇に姿を変えたという。その後、村人はこの池を金襴の池と呼び、後世に語り伝えた。

 現在は、その池は埋め立てられて存在しないが、せめて城址だけはいつまでも残しておいて欲しいものである。そこで命を落としたつわものたちと、池に身を沈めた姫君のためにも。


城址先端部にある金山神社

▲「金襴の池」説明板。
----備考---- 
訪問年月日 2004年2月8日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」

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