天王山砦
(てんのうさんとりで)

掛川市下西郷


▲天王山砦は永禄十一年(1568)の掛川城攻めに際して築
かれた付城群のひとつで徳川家康が本陣とした砦である。
(写真・砦の築かれた龍尾神社参道入口)

今川方との戦いに苦戦

掛川城の北北東約900mのところ、下西郷という限られた地区に龍尾神社の鎮座する丘がある。この丘は龍尾山と呼ばれる。ここは戦国の一時期に城砦化され、天王山砦の跡として伝えられている。

天王山砦は永禄十一年(1568)十二月に遠江へ進攻した徳川家康が駿府を武田勢に襲われた今川氏真の逃げ込んだ掛川城を攻める際に陣取った所である。今川氏真が掛川城に逃げ込んだのが十二月十二日、引馬城を接収したばかりの徳川家康は直ちに見付(磐田市)へ進出して二十一日には軍勢を掛川城近くに向かわせ、その翌日には掛川勢と戦闘状態に入った。同時に家康は付城四ヵ所の構築を進めた。金丸山砦青田山砦仁藤山砦そして天王山砦である。二十七日、家康は天王山砦に陣を移して本陣とした。

「浜松御在城記」によれば、家康は二十七日に掛川城下を地焼して二十八日には越年のために見付に帰ったとある。

年明け一月十七日、家康は再び天王山砦に陣を置いた。十八日には掛川古城(天王山)に布陣していた美濃斎藤家浪人の日根野備中守らの出戦により徳川方の久野衆、岡崎衆、小笠原衆と戦いになったがいずれも敗走したため、家康の機嫌が悪かったという。その後も天王山砦の周辺で掛川城の今川勢との戦いが続いたが、戦況は家康にとって思わしくなく、一月の終わりに各砦の防備を固めて見付に戻っている。

家康は三月にも掛川城の攻撃を実施しているが、これもうまく行かず、氏真との和議交渉に方針を転換した。五月、氏真は城を家康に明け渡して退去、後北条氏のもとへ向かった。

今、龍尾神社を訪れても砦の遺構らしきものは見受けられない。参道入口前を流れる水垂川の水路がかつての堀跡に比定されているくらいである。


▲神社参道前の駐車場。

▲参道入口前の水路。かつての堀跡に比定されている。

▲参道入口の鳥居。

▲参道の石段。

▲龍尾神社。

▲社殿の南側の建物は工事中で、境内の散策はできなかった。

----備考---- 
訪問年月日 2025年8月5日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」他

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