青田山砦
(あおだやまとりで)

                   掛川市上張           


▲ 東陣場の主曲輪跡。青田山砦は二つの峰から成り、西の峰を西陣場、東の峰を東陣場と
呼ぶ。東陣場は秋葉街道(塩の道)の峠道となっており、古来からの交通の要所でもある。

非情の
     のろし台

 ここ青田山砦は、永禄十一年(1568)十二月、武田信玄に駿河を追われた今川氏真の籠る掛川城を攻略すべく徳川家康によって築かれた砦群のひとつである。この砦からは掛川城はもとより天王山(掛川古城)、笠町砦、金丸山砦などの味方の陣所も見渡すことができる。
 青田山砦の陣将には松平(竹谷)玄蕃頭清宗が命ぜられ、それに松平(形原)紀伊守家忠、松平(東条)甚太郎家忠らの三河衆が配された(「武徳編年集成」)。掛川城落城後、陣将の松平清宗はその戦功によりこの付近の上張(あげはり)、菅谷、亀甲(かめのこう)の三ヵ村を与えられたと記されている。
 天正二年(1574)五月、信玄亡き後の武田の勢威を示さんと勝頼の率いる大軍が高天神城を囲んだ。
 高天神城主小笠原長忠は援軍要請の使者を浜松城の家康のもとへ走らせた。使者は匂坂牛之助という。牛之助の役割は、援軍ある場合は青田山の砦跡にてのろしを上げて高天神城に知らせることであった。
 しかし、三方原合戦で武田信玄に大敗を喫した家康は慎重になっていた。織田信長の出馬を待って出陣するつもりであったのだ。
 とはいえ、武田の猛攻の前に落城寸前とあっては致し方ない、
「青田山にてのろしを上げ、城兵を励ますべし」
 と家康は牛之助に命じた。
 結局のろしの甲斐もなく、高天神城の小笠原長忠は武田の猛攻に堪えきれず、六月十七日に開城して武田に降ってしまった。
 虚報と知りつつのろしを上げた牛之助を待っていた運命は自刃であった。
 おそらくは、高天神城を退去して徳川方に戻ってきた者達に対して、虚偽ののろしを上げた責任を負わされたのであろう。
 ▲ 東陣場から見た西陣場の峰。
▲ 東陣場を通る「塩の道」。

 ▲ 砦跡から見た掛川市街地。中央に掛川城が見える。
----備考----
画像の撮影時期*2007/01