仁藤山砦
(にとうやまとりで)

掛川市仁藤


▲仁藤山砦は笠町砦とも呼ばれ、永禄十二年(1569)徳川家康
による掛川城攻めの際に築かれた付城群のひとつである。
(写真・神明宮の建つ砦の主郭跡)

奥平美作守、家康に献策

掛川城の西約800mの丘陵地に仁藤山砦が築かれている。笠町砦とも呼ばれている。永禄十二年(1569)に徳川家康が今川氏真の逃げ込んだ掛川城を攻める際に築かれた付城群のひとつである。他の徳川方の付城のなかでも掛川城に対して最も至近の位置にあった。

永禄十二年(1569)一月、徳川勢は掛川城に取り付き、激しい戦いが連日繰り広げられていた。「武徳編年集成」に一月二十五日のこととして「神君暫ク軍ヲ休メン為ニ兵ヲ収メント所々ノ附城ニ衛兵ヲ籠置ル笠町ニ奥平美作守百五十騎、菅沼新九郎正貞三十騎…」とある。家康は各付城に兵を収めて休養を取らせたのである。ここ仁藤山砦(笠町砦)には東三河の山家三方衆の奥平貞能(亀山城主)と菅沼正貞(長篠城主)らが陣を置いたことが伝えられている。

一旦、兵を収めた家康は掛川の戦線を離れ、築城中(城之崎城)の見付(磐田市)へ戻った。奥平美作守貞能は見付の家康のもとへ赴き、「掛川城の力攻めをやめ、氏真の北条氏への追放」を献策したという。五月、掛川城開城。今川氏真は掛塚から海路蒲原に行き、小田原北条氏を頼って落去した。

現在、主郭跡には神明宮が建ち、北側の一段低いところがニ郭跡で三社神社が建っている。神明宮は山内一豊が掛川城主となった際に城の拡張に伴って現在地に移されたとされる。さらに切通を隔てた北側高台も砦域とされ、不動院が建っている。不動院の開山は室町時代の長享元年(1487)と言われるので、徳川勢がここに布陣した当時にはすでに存在していたことになる。


▲神明宮と不動院の間の鞍部。堀切状鞍部と表現されている。鞍部の右手が主郭のある神明宮、左手が三郭とされる不動院への入口である。

▲まずは主郭跡の神明宮へ。

▲主郭跡の神明宮。

▲主郭北側のニ郭跡には多賀神社、神明稲荷、水神社の三社が祀られている。

▲三郭跡の不動院参道に建つ冠木門。

▲三郭跡の不動院。

----備考---- 
訪問年月日 2025年4月29日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」
「山家三方衆」他

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