龍穴峰砦
(りゅうけつほうとりで)

掛川市和光


▲龍穴峰砦は永禄十二年(1569)の掛川城攻めのために徳川家康が築いた付城のひとつとされる。
(写真・公園として整備された砦跡)

掛川城兵と激戦

掛川城跡の北北西約1kmの位置、倉真川北岸に和光山公園が整備されている。戦国期、徳川家康が掛川城を攻めるために築いた付城群のひとつがこの公園の丘陵上とされ、龍穴峰砦と呼ばれている。「武徳編年集成」などには八幡山の名で記されているのがこの砦であるとされている。

永禄十一年(1568)十二月、徳川家康は三河から遠江へ進攻して井伊谷から引馬城を奪取、席の温まる間もなく天竜川を渡って今川氏真の逃げ込んだ掛川城近くへと駒を進めた。家康は直ちに付城の構築を命じて青田山砦金丸山砦仁藤山砦天王山砦に兵を配した。二十七日、家康は天王山砦に陣を構えて督戦したが、翌日には越年のために見付(磐田市)へ戻っている。

翌十二年(1569)一月、掛川城兵は積極的に出戦して徳川方の砦周辺で激戦を展開している。二十三日、家康は昨夜来激戦の続く天王山砦付近の味方を救援するために見付を出陣した。

「武徳編年集成」には「神君ハ西坂町(磐田市見付)ノ端ヨリ北ノ方八幡山ヲ過テ山家三方衆ヲ先陣…」とある。家康は八幡山付近で山家三方衆(作手奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏)を先陣として天王山砦付近の掛川勢を攻撃させた。八幡山と天王山砦とは至近の距離(約900m東)である。この戦いで長篠城主の菅沼貞景が戦死している。かなりの激戦であったことがわかる。

この時、八幡山(龍穴峰砦)も戦術的に天王山砦を支援する目的で徳川方の駐屯地になった可能性が考えられる。また北東約400mにも次郎山砦と呼ばれる小丘があり、ここも同様に天王山砦を補完するものであったと思われる。

龍穴峰砦の現状は公園化され、丘陵上の尾根は散策路として整備されている。しかしながら城郭としての遺構は感じられない。自然地形を利用して柵を結った程度のものであったのであろう。


▲和光山公園。

▲公園南側登り口。

▲尾根の散策路。

▲ニホンカモシカと遭遇。刺激しなければ襲ってこないとのことなので目の前を静かに素通りした。

▲遺構らしきものは見られない。

▲北側の階段から降りる。

▲東方の天王山砦(矢印)方面。

▲近くの次郎丸砦。

----備考---- 
訪問年月日 2025年9月30日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」
「武徳編年集成」他

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