堀川城
(ほりかわじょう)

                   浜松市北区細江町気賀         


▲ 城址とはいえ、本来が州上に急造された砦であるから遺構はもとより地形的な起
 伏もない。ただ、首塚(左端)だけが当時の出来事を今に伝えているのみである。

滅ぼされた
       気賀一揆

 永禄十一年(1568)十二月、三河から徳川家康による遠江進攻がはじまった。目標は今川氏真の逃げ込んだ掛川城である。遠江に入った徳川勢は井伊谷城引馬城から今川勢を駆逐して一本槍のごとくに掛川城へ向った。

 この時、浜名湖北岸地域はまだ今川方の勢力が健在であった。すなわち佐久城の浜名氏、堀江城の大沢氏、そしてここ気賀の小土豪たちが大沢氏の支援を受けて結束していたのである。

 堀川城の築城は永禄十年、浜名湖を背にして前面に都田川の水を引き、満潮時には徒歩で近寄れないようになっていた。

 城主には祝田で寺子屋を開いていた浪人新田友作がなった。そして尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田四郎義一といった土豪が村人を結集してこの城に立て篭もったのである。

 さて、掛川城を囲んだ家康ではあったが、一旦三河に引き上げて出直そうと気賀にさしかかったところ、そこの村人たちが武装して堀川城に集まり、不穏な様子を見せていたのである。そこで家康は渡辺図書の意見にしたがって雑兵の姿に変装した。この雑兵姿の家康を交えた一隊十七騎が先発し、渡辺図書は二百の兵を率いて後から進んだ。

 この様子を見ていた堀川城では後発の二百人が本隊で家康はその中にいると判断、これに襲いかかったのである。しかし、家康は先に逃れたことに後から気付いて愕然としたのであった。

 翌年三月、三千の徳川勢が大挙して堀川城に迫ってきた。容赦のない異様な気に満ちていた。総攻撃は十二日の干潮とともにはじまった。

 堀川城の城兵二千人とはいえ百姓主体の男女入り混じった村人らである。いくさ慣れした徳川勢に敵うはずもない。約千人が討たれ、戦闘は一日で片付いた。

 気賀七ヵ村(上村、下村、藤本、小森、油田、伊目、呉石)と刑部村の人口は当時合わせて三千人位であったとされている。この一日で千人が殺され、後日さらに関係者として七百人が処刑されているから、人口の半数以上が犠牲となったことになる。家康最大の汚点といっても過言でない戦いであったといえよう。

 落城の惨劇の中で、城将尾藤主膳は堀江城に逃れたが、やがて同城も徳川方と和睦開城するに至り、もはやこれまでと切腹して果てた。

 竹田高正は燃え落ちる城内で切腹。

 山村修理は小舟で城を落ちたが小引佐まで逃れたところで切腹した。

 新田四郎は剃髪して喜斎と号していたが慶長十一年八月、代官石川半三郎によって捕縛、処刑された。

 堀川城落城後も村人にたいする詮議が厳しく、七百人余が捕縛された。九月九日、彼らは全員が打ち首となり都田川の堤に晒された。


▲田園の中の浮島のように見えるところ(中央)が城址である。当時は満潮となると湖水が回り込み島となった。

▲城址の北600bほどのところにある石碑「堀川城将士最期の地」。戦後ここで約百人の住民が処刑されたことから、この地は獄門畷と呼ばれている。

▲気賀関所跡から南西500mの農作地帯に城址がある。

▲堀川城址の説明板。

▲獄門畷。

▲獄門畷の説明板。

▲城址北方の全得寺。城将竹田高正と新田喜斎の霊が祀られている。

城址から約2`ほど西方にある山村修理の墓碑。以前は松の巨木があって「修理殿の松」と呼ばれていた。戦いの日、山村修理は城を脱してここまで来たが、燃え落ちる城を眺めつつ切腹して果てた
----備考---- 
訪問年月日 2004年3月21日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」

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