(しおいがわらとりで)
掛川市八坂
▲塩井川原砦は永禄十二年(1569)の本宮山城一揆討伐の際に徳川勢の出撃拠点となったという。
(写真・東側から見た砦跡の丘)
徳川勢の出撃拠点
国道1号日坂BP八坂ICの南側に塩井神社がある。川の中に潮の湧く井があることから「塩井」という。したがって川を挟んで対岸の拝殿をお参りすることになる。この塩井神社の西側に小高い丘が迫っている。戦国の一時期に徳川勢がこの丘に布陣して砦としたことが伝えられており、塩井河原砦と呼ばれている。 永禄十二年(1569)一月、徳川家康は掛川城の周辺に付城を築いて城攻めに取り掛かっていた。これに対して本宮山城(掛川市八坂)に反徳川の一揆勢が立て籠もり徳川勢の背後を脅かしたのである。家康は一揆勢に対しては容赦なかった。徳川勢は一揆勢の三千余人を討ち取ったという。この際にここ塩井河原砦が徳川勢の出撃拠点となったと言われている。 同じ年の九月、「武徳編年集成」に「竹谷ノ松平玄蕃頭清宗懸川ノ加番ヲ真乗ニ代テ新坂ノ辺塩井原ノ砦ヲ守リ功ヲ成ス…」とある。五月に徳川家康は接収した掛川城を石川家成に与えた。竹谷松平清宗はその加番となっていたが、九月に大給松平真乗と交代して新坂(日坂)近くの塩井原の砦(塩井川原砦)を守って功を成したというのである。戦った相手は駿河を掌中にした武田勢であったと思われる。この時期、武田勢は大井川を渡って小山砦(榛原郡吉田町/小山城の前身)を築くなどして遠江進出の足掛かりを得ようとしていた。 現在、砦跡の丘の北半はバイパス建設によって多くが削り取られて消滅している。残る南半の丘上にも城郭としての遺構は見られず、「静岡県の城跡」では城郭とする評価は難しいとしている。 |
![]() ▲1号BP(高架)と砦跡の丘。 |
![]() ▲砦跡の丘の北半はBP建設によって消滅。 |
![]() ▲砦跡の西側逆川河畔の塩井神社。 |
![]() ▲砦付近から見た本宮山城。距離にして約1kmである。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年9月9日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」 |
↑ | 「武徳編年集成」他 |