(とみたじょう)
菊川市富田
▲富田城は国人クラスの城跡とされながらも築城時期、築城者ともに不詳の城跡で
ある。武田・徳川の抗争期には双方が繋ぎの城として利用したとみられている。
(写真・二の郭の弘法堂)
長行山の城
菊川市の北部、富田川が菊川に合流する西方段丘上に富田城は築かれている。城址南側の直下を東海道新幹線のトンネルが貫通している。北側にはゴルフ場が迫っており、遺構の一部は破壊されたとされているが、一の郭や二の郭の主要部は残されている。 城史に関しては不明な点が多く、創築の時期や築城者についても不明である。城の規模から国人クラスのものと考えられるとされている。気になるのは富田城の別名が長行山(ながゆきやま)城と呼ばれており、城の南麓を長行平という。長行というのは人名で、永享(1429-41)の頃に河村荘堀之内に住したという小笠原正行の父とされ、今川氏に仕えたとされる。ちなみに正行は後に堀内氏を名乗り、行重、行親と続いて堀内城に住したという。この堀内城がどこにあったのか不明であり、富田城を指すのかも分からない。 ともあれ、(小笠原又は堀内)長行はここで戦いに敗れ、長行の姫は泣く泣く落ち延びたという伝承があり、ナゲキビラの地名を残したという(「静岡県の中世城館跡」)。戦いの相手は誰であったのだろうか。 時は過ぎて永禄十二年(1569)、掛川城攻囲中の徳川家康は遠江の国衆に対して所領を安堵して味方への糾合を策していた。ここ富田城周辺の「吉沢」「潮海寺」の地は大村弥十郎に安堵され、富田城の在番であったのであろうかとされている(「静岡県の城跡」)。しかし、天正二年(1574)に高天神城が武田勝頼に落とされると東遠一帯は武田の勢力下となり、大村弥十郎は勝頼に従い、前領地を安堵されている。 翌天正三年(1575)には徳川方の反撃が開始され、武田方の拠点諏訪原城が落城している。その際に富田城も徳川方によって利用されたものと見られている。 近年、富田城の北東近くの善福寺境内が中世の居館跡であったことが発掘調査で確認されており、富田城の根小屋であったと指摘されている。今後の考究が期待されるところである。 城址の現況は弘法堂のある二の郭以外は荒廃が進み、一の郭やその北側の段曲輪なども茶畑の放棄地となって見学もままならぬ有様となっている。 |
![]() ▲ゴルフ場の最南端部に城跡への入口がある。 |
![]() ▲入口に立つ案内版。 |
![]() ▲道に沿って行くと広場に出る。 |
![]() ▲二の郭である。ここには弘法堂が建っている。 |
![]() ▲二の郭の北側が一の郭であり、これはその間の空堀跡である。 |
![]() ▲一の郭に出ようと北へ向うのであるが、ご覧のように藪が迫っている。 |
![]() ▲藪を掻き分けて一の郭の北端へ出る。放棄された茶の木が背丈以上に伸びて何もできない。 |
![]() ▲一の郭の脇から北方を眺める。目の前は段曲輪のはずだが伸び放題の茶の木によって分からなくなっている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年4月29日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」 |
↑ | 「静岡県の中世城館跡」他 |