小牧陣屋
(こまきじんや)

西尾市吉良町小牧郷後


▲小牧陣屋は大多喜藩大河内松平家の三河領支配の陣屋であった。
(写真・陣屋跡の一画に整備された公園)

大多喜藩三河領の陣屋

東条吉良氏の城跡である東条城の南西約1kmに小牧陣屋跡として小さな公園が整備されている。ここは江戸時代に甘縄藩後に大多喜藩の三河領統治の陣屋が置かれた所で、戦国期には松平元康が東条城攻めに際し、築砦して本陣とした所でもある。

永禄四年(1561)岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)は三河平定のために吉良氏の東条城を攻め、ここ小牧砦を本陣所として本多豊後守広孝を配置した。吉良氏降伏の後、当地は本多広孝に与えられ、砦跡には地頭役人が置かれたという。

慶長年間(1596-1615)には松平正綱の所領となったとされる。松平正綱は寺津城(西尾市寺津町)主大河内秀綱の次男で天正十五年(1587)に家康の命にて長沢松平家分家の養子となったもので、大河内松平家の祖となった。文禄元年(1592)から家康に近侍し、慶長十二年(1607)の駿府城火災の際にいち早く駆け付けて晒しを結んで石垣に垂らして多くの人命を救ったことで慶長十五年(1610)に三河国幡豆郡八ヶ村三千石を拝領した。その後も加増が続き、元和五年(1619)頃には三河、武蔵、相模、大和の内に二万二千石を領する大名となり、相模国甘縄(玉縄)藩主となった。

三代松平正久のとき、元禄十六年(1703)に上総国大多喜藩二万石へ移封となった。三河の所領も吉良家改易による領地替えで九千三百五石となり藩所領の半分近くを三河領が占めた。したがって小牧陣屋は大多喜藩三河領一万石近くを支配する重要な陣屋となった。

小牧陣屋の治めた村は小牧、木田、宮迫、津平、友国、中野、酒井、荻原、富田、大島、吉田、宮崎、鮫馬、寺津、佐久島、松木島、大塚、巨海、中根そして現豊田市の東西鴛鴨、若林、小原など十ヶ村を含めて一時は二十九ヶ村に及んだ。

陣屋は郡奉行(郡代)一人、代官三人程、手代七〜十人、足軽四〜六人、仲間六〜七人で構成され、代官役所としての規模は大きなものであったという。

元和二年(1616)頃には大河内松平家の陣屋が当地に置かれたようで、初代郡奉行として天野六蔵の名が伝えられている。また、享和三年(1803)に伊能忠敬による三河湾測量の案内と警護を行った陣屋代官判治栄蔵の名も伝えられている。

幕末には文久二年(1862)から農兵の訓練を始めたとされ、近隣の次男三男(上等兵十五人、兵卒十五人)が集められた。この年に大多喜藩主となったのが九代松平正質(まさただ)で、やがて明治を迎え、廃藩となり、小牧陣屋も閉鎖されて約二百五十年の歴史に幕を下ろした。

現在、陣屋跡の公園には石造の冠木門や説明板などが建てられており、かつての歴史を伝え続けている。他に、陣屋の長屋門が吉良町荻原の旧糟谷邸に移築されている。


▲陣屋跡の一画に整備された小公園。

▲公園内には説明板や絵図などが掲げられている。

▲「小牧陣屋の歴史」の説明板。

▲小牧陣屋の平面図。

▲現在の地図とかつての陣屋跡(橙色部分)。黄丸はこの公園の位置。

▲陣屋の長屋門。旧糟谷邸に移築されている。

----備考---- 
訪問年月日 2025年12月9日
 主要参考資料 「吉良の人物史」
「吉良の歴史」他

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