
(あいばじょう)
西尾市吉良町饗庭城山

▲饗庭城は地頭饗庭氏の城とされ、戦国期には松井氏のもとに置かれた。
(写真・饗庭の丘陵、矢印が城跡)
妙鶴丸と饗庭の城
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西尾市吉良町の半島状に突き出た饗庭の山稜地の南麓段丘上に城跡がある。饗庭城という。平安後期には伊勢神宮外宮の神領として饗庭御厨が存在しており、鎌倉期の承久の乱(1221)後には地頭が置かれたというが、饗庭城の創築については分からない。 饗庭郷を名字の地とする饗庭氏の登場は南北朝期の康永二年(1343)で、饗庭因幡とされる。貞和四年(1348)、諏訪社笠懸の射手として饗庭妙(命)鶴丸の名が現れ、足利尊氏の近習になったことが伝えられている。前髪立ちの美少年であったようだ。饗庭因幡の子であったかどうかは分からない。 観応の擾乱(1350-52)に際して妙鶴丸は駿河薩?(さった)山合戦で尊氏から感状を与えられ、続く武蔵の合戦では三番隊六千人を率いて戦ったという。兵は皆梅の花を兜に指して戦ったため「花一揆」と呼ばれ、「太平記」の世界を彩っている。この時、妙鶴丸は十八歳であったという。文和三年(1354)、妙鶴丸は元服して五位近衛将監弾正小弼に任ぜられ、尊宣と名乗る。「尊」は主君尊氏からの偏諱と思われる。 その後、妙鶴丸こと尊宣は将軍義満に近侍していたようだが、永徳三年(1383)を最後にその存在が記録に残されていないという。 地元の伝承ではこの永徳三年に妙鶴丸は後小松天皇より饗庭七郷を賜り、饗庭に住したという。饗庭城は京における宮仕えに疲れた妙鶴丸の隠居の館城だったのであろうか。翌年には金蓮寺不動院を祈願所とした。この時、五十歳か。その後の文明七年(1475)に松平信光を呪詛したことが発覚して自刃したとされる。しかし文明七年時点での妙鶴丸の年齢は百四十一歳ということになり、自刃したのは妙鶴丸以降の饗庭氏の誰かであったものと思われる。 妙鶴丸以降の饗庭氏は十五世紀中頃に幕府奉公衆三番として饗庭左近将監、饗庭中務少輔といった名が記録に残されている。しかし、応仁の乱の余波を受けたためか、十五世紀後期には饗庭氏による饗庭郷の支配は終わったものと見られている。 天文十五年(1546)頃になると今川義元による三河攻略が始まり、天文二十年(1551)頃までには三河の殆どが今川氏の支配下に置かれた。この時に饗庭郷は東条吉良氏に与えられたとされる。しかし、弘治元年(1555)に東条城の吉良義安が反乱したため、今川氏は義安を駿河に幽閉して饗庭郷を含む吉良領は今川氏の直轄となったとされる。 永禄三年(1560)以後は岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)による三河統一の結果、吉良義昭を追放して松平忠茂に東条城を与えた。そして饗庭郷は忠茂の重臣で波城主の松井忠次の支配下に置かれた。 現在の城跡は竹藪となり、遺構は存在しないとされている。 |
![]() ▲城跡の西側にある金蓮寺。妙鶴丸の祈願所となったとされる。 |
![]() ▲金蓮寺の由来。源頼朝の命により三河守護安達盛長が文治二年(1186)に創建したとされる。 |
![]() ▲金蓮寺弥陀堂。国宝指定の建造物である。 |
![]() ▲弥陀堂の説明板。鎌倉時代中期の建造とされている。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2025年12月9日 |
| 主要参考資料 | 「愛知県中世城館跡報告」他 |