一ノ瀬古戦場
(いちのせこせんじょう)

周智郡森町三倉一ノ瀬


▲一ノ瀬古戦場は天正二年(1574)四月に徳川家康が武田方となった天野氏の
犬居城攻めの際に大雨で撤退となり、追撃する天野勢との戦いとなった所である。
(写真・一ノ瀬に残る七人塚)

家康二度目の敗戦

森町三倉の集落から1.5kmほど三倉川の上流に一ノ瀬の集落がある。ここからさらに県道58号を北上すると春野町領家に通じている。春野町領家には戦国期に天野氏が本拠とした犬居城がある。一ノ瀬はこの天野勢と徳川勢が戦った「一ノ瀬の戦い」の戦場として知られている。

元亀三年(1572)十一月、甲斐の武田信玄は大軍を率いて青崩峠から遠江へ侵攻した。天竜川沿いに南下する武田勢に犬居城の天野藤秀(景貫)は人質を出して信玄に降った。信玄の大軍はさらに南下して二俣城を落とし、十二月二十二日には三方原に布陣した。対する浜松城の徳川家康も城を打って出、三方原に殺到して武田勢と激しく戦った(三方原古戦場)。結果は徳川勢の完敗で家康は命からがら浜松城へ逃げ戻った。ところがこの翌年(1573)、三河野田城を落とした信玄の大軍は信濃路から甲斐へ引き上げてしまった。信玄が病没したのである。

信玄の死は秘されてはいたが、その死を確信した家康はすぐに失地回復の行動を始めた。まずは三河長篠城を奪還、そして翌天正二年(1574)四月には北遠天野氏の犬居城の攻略を目指して動いた。

「浜松御在城記」にこの時の犬居城攻めのことが記されており、家康は瑞雲院(春野町堀之内)に陣取り、諸軍勢を領家、堀之内、和田之谷に布陣させたとある。徳川勢の多くは気田川の南岸に陣を敷いたようだ。犬居の城下と犬居城は北岸にある。

しかし、連日の大雨により兵糧の運搬補給がうまく行かず家康は城攻めを断念して陣を引き払うことにした。徳川勢は山や谷を越えながら三倉を目指して退却した。

ところが、徳川勢の撤収を見た天野勢は直ちに追撃に移り、これに加えて田能や大窪村の郷士らも天野方に加勢して退却する徳川勢を襲った。

この退却する徳川勢が追いすがる天野勢を食い止めようと踏み止まって戦った場所が一ノ瀬であろう。ここで徳川勢の堀平十郎、堀小太郎、玉井善太郎、鵜殿藤五郎、大久保甚七郎、小原金内ら二十余人が矢玉にあたり討死した。

三倉に先着していた家康は一ノ瀬方面から鉄砲の音が激しく聞こえるので麾下の水野惣兵衛忠重、大久保七郎右衛門忠世、榊原小平太康政らを一ノ瀬へ向かわせた。水野、大久保、榊原の軍勢は敵数十人を討ち取って味方を収容、三倉(三倉城)へ退去した。家康はさらに安全な天方(天方本城)にまで陣を戻したという。

三方原合戦に続く敗戦となった犬居攻めであったが、これらの敗戦の教訓が後の家康の戦術に生かされることになったのは言うまでもない。

現在、一ノ瀬には戦いで討死した徳川家臣を葬ったという「七人塚」や「鵜殿藤五郎戦死之地」の碑が建っている。また、敗走する家康を援けて後に「葵紋」を許されたという「田口家屋敷跡」や「栄泉寺」が一ノ瀬合戦にまつわる史跡として伝えられている。


▲秋葉バスの一ノ瀬バス停横に古戦場の案内板が立っている。

▲古戦場の説明板。

▲古戦場の周辺案内図。家康が隠れたという「権現森」や武田方の天野勢が勝鬨を挙げたという「万歳坂」などがある。

▲一ノ瀬の地名由来。街道が三倉川と交差する場所を「瀬」と呼び、「一ノ瀬」は最も上流にある第一の「瀬」という意味である。下流に行くに従い「二ノ瀬」「三ノ瀬」となり、全部で四十八瀬を数えたという。

▲一ノ瀬を流れる三倉川。

▲戦死した徳川家臣を葬ったという「七人塚」。

▲七人塚の説明板。

▲鵜殿藤五郎の戦死地である「鵜殿渕」。

▲鵜殿渕に建つ「鵜殿藤五郎光成戦歿之地」の碑。

▲敗走の途次、家康が逃げ込んだという田口家屋敷跡の碑。後に「葵紋」を許され、「双葉葵」を家紋としたという。

▲三倉の栄泉寺も家康を匿ったことから後に「葵紋」の使用が許されたという。

▲栄泉寺本堂の戸のガラスには「三つ葉葵」の紋が描かれていた。

----備考---- 
訪問年月日 2025年10月23日
 主要参考資料 「浜松城時代の徳川家康の研究」
「浜松御在城記」他

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