兜塚
(かぶとづか)

磐田市見付


▲兜塚は古墳時代中期の円墳であるが戦国期に徳川家臣本多平八郎
忠勝が陣取り、兜を脱いで束の間の休息をとった場所として知られる。
(写真・兜塚古墳)

本多平八郎と兜塚

磐田市見付に市の施設として「かぶと塚公園」が整備されている。公園内には総合体育館をはじめ、陸上競技場、卓球、弓道、アーチェリー、ソフトボールなどの競技施設が設置されている。災害時には避難所として、また防災ヘリポートとしても活用されるようになっており、市の重要拠点となっている。その名の由来となっているのが公園内にある兜塚古墳である。

兜塚古墳自体は大型の円墳で古墳時代中期(五世紀前半頃)の築造と推定されている。規模は直径80m、高さ8mである。昭和十九年(1944)の太平洋戦争時に墳頂部に塹壕の掘削が行われた際に直径20cmの三神三獣鏡をはじめとする勾玉、管玉、刀剣などが出土している。

江戸時代に編纂された「遠江古蹟圖繪」に「その形兜に似たり。俗説に、元亀三壬申年九月(十月)、この所にて神君信玄公と合戦、本多平八郎忠勝兜をこの処に脱ぎ棄て、大わらわになりて働きしとなり。ゆえに兜塚と云う」とある。

つまり、兜塚の名の由来として兜の形をしているからとし、また別説として元亀三年(1572)十月の徳川家康と武田信玄との合戦の際に家康の家臣本多平八郎忠勝がこの塚に兜を脱ぎ棄てて武田勢を相手に八面六臂の大活躍をしたことが名の由来だというのである。

歴史好きとしてはやはり本多平八郎の大活躍の舞台のひとつとして兜塚を見てしまうのは仕方ないだろう。実際にここは一言坂の戦いと呼ばれる古戦場跡の範囲に含まれているのだ。

この日、徳川勢の先鋒隊として三箇野台に進出していた本多平八郎と内藤信成の隊は武田勢に追われて撤退、家康本隊の撤収の時間稼ぎの為に見付の宿に火を放ち加茂川の西まで退いたところで本多平八郎は一息ついた。そこがこの塚であったのだ。

この辺は梅の木が多かったようで、平八郎は塚の上に陣取り、梅の木に兜を掛けて敵情を観察していた。正面に迫るのは武田の勇将馬場美濃守の軍勢である。そして武田の別動隊がこの塚の北側を大きく迂回して一言坂方面へ向かおうとしていた。これでは腹背より攻められて孤立してしまう。平八郎は直ちに兜を被ると手勢を率いて迫る馬場隊を蹴散らしながら一言坂に退き、迂回してきた武田の別動隊の小杉右近隊も勢いに任せて蜻蛉(とんぼ)切りの槍を振るって蹴散らした。

この時の本多平八郎忠勝らの奮戦によって徳川家康は無事浜松城へ引き上げることができた。翌日、武田別動隊の隊長小杉右近は一言坂の戦場に「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」の狂歌の落書を残したという。

現在では塚の周りは市民の散策路となり、戦国の風情は感じられないが、かつて本多平八郎が兜を外して戦塵にまみれた汗をぬぐったであろうことを想うと感慨深いものがある。


▲かぶと塚公園の駐車場と兜塚古墳の森。

▲隣接する磐田市総合体育館。

▲墳丘は二段となっており、中段は幅広のテラス状となっている。

▲上段の墳丘。

▲墳丘の頂部。平坦面となっているが、これは戦時中に塹壕工事が行われ、戦後には建物が建てられていた名残りであろうか。

▲頂部から下を眺める。

----備考---- 
訪問年月日 2026年1月4日
 主要参考資料 「遠江古跡図絵」
「一言坂の戦い」他

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