みかのだい
(みかのだい)

                   磐田市三ヶ野           

三箇野台
▲ 「古戦場・大日堂」として整備されている。以前には「平八郎物見の松」の大木があったという。

かなたに、
         武田の大軍見ゆ

 元亀三年(1572)十月、二万五千の大軍を率いて信濃から遠江に進攻した武田信玄は北遠から真っすぐに南下、一軍を勝頼に授けて二俣城へ当らせると自らは本軍とともにさらに進撃を続け、東海道へと一気に軍を進めたのであった。
「来たか、信玄入道」
 家康以下、浜松城の将士は奮い立った。とはいえ総勢八千、武田軍の三分の一にも満たない。しかも相手は戦いの機微を知り尽した老練な戦巧者である。徳川も三河、遠江二ヶ国に勢力を広げたとはいえ、武田に比べれば未だ弱小勢力である。
「平八郎っ、行くぞ」
 家康三十一歳、本多平八郎忠勝二十四歳、若さと新進の気概だけは武田に負けてはいなかった。家康は平八郎と大久保七郎右衛門忠世(三十九歳)、内藤三左衛門信成(二十七歳)ら三千の兵を引き連れて浜松城を出撃した。無論、決戦を挑むためではない。信玄直卒の軍兵をその目で確かめたかったのである。
 天竜川を渡り、見付(磐田市)に到着した家康は内藤信成、本多忠勝の一隊をさらに前進させた。
 その前進拠点となったのがここ三箇野台である。ここからは現在の袋井市方面が見渡せる。ここに立った徳川の若き将士たちは武田の旗指物や軍兵の動きを望見して何を思ったのであろうか。
 ただ、生きるためには戦い、そして勝つしかなかったのである。戦国とはそういう時代であった。
袋井方面
▲ 台上から袋井市方面を望見。物見の
  一隊はここからさらに前進して行った。
----備考----
画像の撮影時期*2005/02