ひとことざかこせんじょう
(ひとことざかこせんじょう)

                   磐田市一言           

一言坂古戦場
▲ 武田軍が追撃してきた街道は今では国道1号線として大量の車両が行交っている。

家康に過ぎたるもの
            ふたつあり

 元亀三年(1572)十月三日、三万の大軍を催した武田信玄は、自ら本軍を率いて北遠青崩峠から遠江に進攻、途上の諸城を次々に屠りながら南下を続け、東海道木原、西島(袋井市)に布陣して家康の出方を見守った。武田軍の布陣位置はちょうど、浜松城と掛川城、高天神城との連絡路を遮断するかたちとなっていた。
 一方の徳川家康は大久保忠世、内藤信成、本多忠勝ら三千の兵を率いて見付(磐田市)に陣した。無論、決戦のための全力出撃ではない。名だたる武田軍団をその眼で捉えておきたかったのである。襲われればすぐに引き上げるつもりであった。
 見付に陣したのも束の間、家康は、斥候に出ていた内藤信成の一隊が木原畷で武田軍の捕捉攻撃を受けて避退中であるとの連絡を受けた。しかも追撃する武田軍は先鋒の馬場信房勢であるという。
 武田軍の動きは素早い。はやくも三箇野台を抜いて見付宿に突入してきた。
 家康は慌てた。
「見付の宿に火を放ち、路を塞ぐのじゃ」
 武田軍の対応の素早さと機動力の凄まじさに驚く家康であった。
 ほうほうの体で見付を引き上げた家康は、ここ一言坂で兵をまとめて一息ついた。
 それも束の間、火の海となった見付宿を迂回した武田軍がはやくも馬蹄を轟かせて迫ってきたのである。
東海道一言坂
▲ 東海道一言坂へ通じる坂道。
 このとき、
「殿軍、承り候っ」
 と、蜻蛉(とんぼ)切りの槍を振り回し、獅子奮迅の活躍をしたのが本多平八郎忠勝(二十五歳)であった。
 おかげで家康は坂を逃げ下り、危機を脱することができたのである。
 これが一言坂の戦いと呼ばれるものである。
 本多平八郎の活躍によって退却した家康は石動(ゆるぎ)という湿地帯を利して陣を張り、追撃の武田軍を迎え撃つことにした。ただ、これ以降のはなしは伝承の域を出ないのであしからず。
 すでに陽は落ち、あたりは闇に沈みつつあった。
「周りの木々に堤燈を掛け、大軍が陣する如くに見せるのじゃ」
 家康の下知によって堤燈の明かりが闇の中に無数に瞬き、兵らはこれでもかとときの声を張り上げた。
古戦場碑
▲ 国道の道路脇に建てられた古戦場碑。
 さて武田軍とてそれくらいのことで恐れをなすような惰弱な軍勢ではない。
「蹴散らせっ」
 の掛け声とともに一斉に徳川の陣へ攻め掛かった。
 ところがそこは腰まで浸かるほどの沼地であった。馬は転び、兵は足を取られてもがくうちに徳川勢の反撃によって多くが討たれてしまった。
 家康は武田軍の攻撃が沼地によって頓挫した隙に素早く撤収を命じ、一目散に浜松城へ駆け戻ったのであった。
 木原、三箇野、見付、一言坂と武田軍の追撃を何とかかわした家康であったが、この後は浜松城に籠り、三方原の合戦に至るまで出ることはなかった。
 一言坂の戦いの翌朝、本多平八郎の活躍を聞いた武田信玄は、
「小身の家康殿には過ぎたるものよの」
 と云ったという。
 これを聞いた信玄の近習小松右近が、
「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」
 と落書して坂に立てたと伝えられている。
一言観音 ▲ 古戦場近くの知恩斎門前に安置されている一言
  観音。一生に一度だけ願いを聞くといわれている。
  敗走の途中、家康はここへ立ち寄り、戦勝を祈願し
  たと伝えられている。
挑燈野
 ▲ 一言坂から西へ役1km、旧蹟挑燈野の石碑が
   ある。家康が沼地を利して武田軍を迎え撃ったと
   伝えられる場所で、戦後村人が戦死者を弔った所
   でもある。
----備考----
画像の撮影時期*2003/11及び2005/06