
(むろじょう)
西尾市室町上屋敷

▲室城は東条吉良氏の重臣富永氏の居城である。
(写真・主郭跡への登城口)
吉良重臣富永氏の城
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吉良町の東条城跡から北北東約3kmに東条吉良氏の家臣富永氏の居城であった室城跡がある。主郭跡は墓地となり、井戸跡や土塁跡が遺構として残っている。 室城城主の富永氏はかつて野田郷(新城市野田)に館(野田館)を構えて設楽郡から宝飯郡にわたる広大な所領を有していた。その分家の富永資良が三代将軍足利義満に仕え、二代行康は足利義政に仕えた。三代資正が応仁二年(1468)に吉良義信に仕えて以降は富永氏は吉良氏の重臣として続いた。 四代正安は吉良義信の後継義堯に仕え、永正年中(1504-21)に東条城に至る街道の要所を守る城として室城が創築されたといわれる。 五代忠安は東条城の吉良持広に仕えた。天文五年(1536)には岡崎城を桜井松平信定に追われた松平広忠を吉良持広の尽力によって家老富永忠安の室城に迎えている。しかし、松平信定の知るところとなり、室城は攻められてしまう。広忠らは城を焼いて今橋城(吉田城)へ移ったとされ、翌年に今川義元の支援を受けて岡崎城へ復帰した。広忠は室城の神明社に三つ葉葵の紋を奉納したという。 その後、三河の世情は変わり続けた。松平広忠は尾張織田氏との戦い渦中で没した。また東条吉良持広も没して養子の吉良義安が継いだ。その義安も今川氏によって幽閉され、その弟の義昭(よしあきら)が今川の手によって東条城に入った。 富永氏は一貫して東条吉良氏に仕え続けたと思われ、弘治年間(1555-58)頃には東条城城主吉良義昭の重臣であった。六代富永伴五郎忠元である。 永禄三年(1562)、桶狭間合戦で今川義元が織田信長に討たれると今川方であった松平元康は信長と結んで三河統一のために今川方の吉良義昭と対立を深めていた。 永禄四年(1563)四月、吉良義昭が仕掛けた善明堤(鎧ヶ淵古戦場)の戦いによって松平元康は深溝松平好景や板倉好重らを討取られた。富永伴五郎忠元はこの戦いで義昭の一手を担って善戦している。 しかし、九月になると元康は東条城を攻めるために付城を築き、小牧砦(後の小牧陣屋)を本陣として七百余騎で東条城へ迫った。一方の東条城からは豪勇無双二十五歳の富永伴五郎忠元が三百六十余騎を率いて城外の藤波畷(藤波畷古戦場)に布陣した。戦いは多勢の松平勢が優勢で、伴五郎忠元も終には討死してしまった。頼みの伴五郎忠元を失った吉良義昭は元康に降伏した。 戦後、室城には元康の家臣本多広孝が入ったが、広孝は数年後には田原城主となって移ったため、廃城となったらしい。 現在、墓地となっている主郭西側の土塁跡に「牟呂城跡」の標柱が立てられていたが、朽ちてしまっている。東側の三つ葉葵を紋とする神明神社の境内はかつて蔵屋敷と呼ばれていた。 |
![]() ▲主郭跡(墓地)への登り口。 |
![]() ▲登り口に立つ説明板。 |
![]() ▲主郭跡は全体が墓地となっており東西の隅に土塁跡の高まりが見られる。 |
![]() ▲東側の土塁跡。 |
![]() ▲墓地の中央近くの南側のくぼみ。かつての井戸跡とされている。 |
![]() ▲西側の土塁跡と朽ちた城址標柱。 |
![]() ▲主郭東側の神明社は蔵屋敷跡という。 |
![]() ▲神明社の社殿。瓦には三つ葉葵の紋がある。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年1月8日 |
| 主要参考資料 | 「吉良の人物史」他 |