向笠城
(むかさじょう)

               磐田市向笠竹之内      


▲ 左右二つの山上が城域とされており、左側が主郭跡と見られている。なお、手前
  の平地に城館があったとの見方もあるが、何れも遺構に乏しいのが現状である。
(写真・城屋敷跡から山城を眺める)

戦国、波乱万丈物語

 向笠氏は戦国期における中遠の国人衆の一氏で、永正五年(1508)の今川氏親の重臣伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)による三河岩津城攻めの際にその配下遠州衆の中に加わっていたことが「三河物語」に無笠として記されている。

 その後、今川氏に属して所領の維持につとめたものと思われる。その向笠氏の初代とされるのは向笠伯耆守で、城址山麓にある新豊院の開創者でもある。

 やがて、今川氏の時代が終わり、遠江の地は武田氏と徳川氏の激突するところとなった。元亀三年(1572)、武田信玄は総力をあげて遠江に進攻、瞬く間に天竜川以東をその傘下に収めて徳川方を駆逐した。当然、向笠城も武田方の支城となって反徳川の旗を掲げた。

 時の城主は「武笠家譜」によれば伯耆守から六代目の資少となっている。この時、資少はまだ十歳で五代目資易(すけえき/永禄七年上総国にて戦死)の弟藤七郎が後見となって城を守っていた。

 翌天正元年三月、武田勢の引き上げを待っていたかのようにして徳川勢は天竜川を渡って攻めてきた。無論、向笠氏の手勢一手では敵うべくもない。資少は母と後見の藤七郎に守られて城を落ちた。小田原北条氏に身を寄せたのである。この時に向笠を武笠と改めたという。

 天正十八年(1590)三月、資少は豊臣秀吉軍を相手に山中城で一番槍の功を上げた。しかし山中城は落城、北条氏も降伏した。資少は北条氏とともに高野山麓に移ったが、その後浪人の身となった。

 しばらくの後、縁あって彦根の井伊家に仕官、大坂夏の陣で戦功をたて、その後武笠家は井伊家の家臣として続き、明治を迎えたのである。

 なお向笠落城後、資少以外の一族は高天神城に入り、再び徳川軍との戦いに身を投じたとされる。「高天神記」に天正九年、向笠彦三郎戦死とある。これを伯耆守であるとする見方もある。

 何れにせよ、戦国弱小国人の波乱万丈の物語ではある。


▲説明板(以下写真は再訪時である)。

▲畑地に立てられた城跡の説明板。

▲城屋敷近くの廃寺跡に多くの五輪塔があったが、新豊院の裏山に移された。その跡地は今でも「五輪様」と呼ばれている。

城址に抱かれるようにして佇む新豊院。裏山中腹に向笠伯耆守の五輪塔がある

▲新豊院墓地の古墳供養塔。山城部とされる裏山は国指定の古墳地帯である。採土などによって失われた墳墓を供養するためのものである。
----備考---- 
訪問年月日 2004年1月18日 
再訪年月日 2022年11月5日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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