こうみょうじょう
(こうみょうじょう)

                 浜松市天竜区山東           


▲ 光明城は旧秋葉街道沿いの当地に行基が密教修験の地として開創した光明寺を
今川氏が接収して山城に改築したものである。その後、武田、徳川の争奪するところと
なり、江戸期には再び光明寺が再建された。現在残る石垣は再建光明寺の名残である。

北遠戦略の拠点

 光明山は養老元年(717)開創の山岳霊場として光明寺のあったところである。この北方に位置する火の神秋葉山と並び、水の神として知られている。
 戦国時代、今川氏は遠江を席捲し、さらに北遠における支配を強めるためにここ光明山に着目した。北遠の国人天野氏と奥山氏の動静を監視する必要性からである。秋葉街道を見下ろす光明山は天野、奥山両氏の動きをいち早く察知できる位置にあったのだ。
 文亀年間(1501〜03)、遠江守護である斯波方との戦闘の末、今川方は二俣城を攻略、譜代の瀬名一秀を置いて北遠支配の拠点としたが、先の理由から朝比奈時茂を光明山へ進駐させたのであった。時期は享禄年間(1528〜32)とされている。時茂は光明山の寺院を接収して城砦化したのである。このとき、寺院は現在の光明寺(二俣町)の場所に移転させられたのである。
 その後、桶狭間の敗戦で今川氏は没落の一途をたどり、永禄十一年(1568)には徳川家康による遠江進攻が始まったのである。
 国人の多くは徳川氏になびいたが信州と接する北遠地方は武田氏の影響を受けて奥山、天野の両氏が武田に寝返り、元亀三年(1572)には先導役となって武田軍を導いたのである。このとき光明城は武田軍の二俣城攻略の拠点のひとつとなった。
 しかし武田の城としては長くは続かなかった。信玄亡き後、家康は二俣城奪還に乗り出し、天正三年(1575)六月、光明城は本多忠勝、榊原康政らによって落とされたのである。
 その後、二俣城主となった大久保忠世によって天正十年頃までその管理下にあった。
 それ以後は光明寺が再びこの山に戻り、霊場として発展を遂げることになった。昭和六年、繁栄を誇った光明寺は火災に見舞われ、二十余の堂塔伽藍の全てが焼失、再び山を降りて現在地へ再興された。
 城址に残る石垣や石段等の遺物は寺院の遺構で、城跡の痕跡は東側尾根筋に曲輪跡や堀切跡が見られる。

▲ 本丸(本堂跡)から東側尾根上には戦国期の曲輪跡が連なり、このような堀切跡も残っている。

▲ 本丸(本堂跡)西側には光明寺の庫裏や書院などの施設が建てられていた。石垣はその名残である。

▲ 本丸跡。江戸期には光明寺が再興され、本堂が建てられていた。

▲ 本丸(本堂跡)からの眺望。およそ30kmほど南の遠州灘まで見渡せる。

▲ 本丸(本堂跡)の東に立てられた案内板。東の尾根上には戦国期の曲輪跡が連なっている。

▲ 本丸(本堂跡)から東へ二つ目の曲輪。ここには五人塚と呼ばれる土壇が残り、その先には堀切が見られる。現地看板によれば、この五人とは天正三年(1575)の城攻めで戦死した徳川方の本多作次郎、石川善内、渋谷三右門、菅沼源太郎、山本庄介と記されていた。

▲ 2005年訪問時の光明寺本堂跡の前の石段。
----備考---- 
訪問年月日 2005年1月30日 
再訪年月日 2011年12月4日 
画像追加 2012年2月12日
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
 ↑ 「北遠の城2008」他 

トップページへ遠江国史跡一覧へ